2019年4月14日日曜日

世田谷代田関係リンク

当方の、代田関係の他のブログやWebの記事、投稿などへのリンクを順次掲載してゆきます。


■YouTube

代田餅つき
https://youtu.be/eYDpt7Y-ZG8

2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社で行われた
世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能)
三土代會餅搗き
の記録です。

■ブログ
平成作庭記

【代田連絡線余話】小田急デハ101シリーズの窓配置
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/02/101-ab32.html

戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その1:駅舎の意匠〕
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-3c7f.html
戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その2:駅舎の規模〕
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-a1c4.html
戦災前の世田谷中原駅を推理する〔その3:駅舎の想像図〕
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/05/post-e971.html


講演会「三土代會の歴史」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-f36c.html
講演会余録「代田のダイダラボッチ」の弁天堂
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/10/post-0ecb.html


代田村のもう一つの「謎」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/07/post-81ed.html


「代田用水」とは「何ぞや?」
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/05/post-54b7.html

2019年4月13日土曜日

世田谷代田SAP 〜環七の壁画がつなげた地域のまちづくり

今日ご教示いただきました

世田谷代田SAP 〜環七の壁画がつなげた地域のまちづくり  
https://youtu.be/hZCZKsL_uEU





平成16年に始まる、地域に方々が、世田谷代田の環七陸橋前後の擁壁に絵を描くプロジェクト〔Street Art Project〕。





平成30年からの、絵のリ・二ューアルの模様です。



2019年2月24日日曜日

代田の2条の高圧送電線

■ 戦前の一時期…

地図によれば、代田地区を2条の高圧送電線が縦断しています。


M42測S03修測3_世田谷 抜粋

 一方が、東電の前身である東京電燈のそれで、もう一方が玉川電気鐡道(当時は、電気事業も営んでいた)のそれだろう、と見当はついていたのですが*、どちらがどちらの送電線かは不明でした。

 たまたま、東京都公文書館蔵の
「土地収用事業認定(鉄道敷設並附帯事業)【停車場設計平面図2
停留場設計平面図10 敷設線路実測平面図2 実測図(地籍
図)34 区域標示図】〔荏原□世田谷町大字下北沢字下山谷 日
蔭山 新屋敷 西山谷〕《小田原急行鉄道(株)》」〔[16],[D]D895/305.F6.06 , 305.F6.07〕

 

中の「中原停留塲設計平面図」


を見ていたら

 現・世田谷代田駅のあたりで小田急線と送電線がクロスする場所では
・東側(新宿 寄り)が「東京電燈送電線」
・西側(小田原寄り)が「玉川電気送電線」
である旨明示されていました。

【代田連絡線余話】小田急デハ101シリーズの窓配置

■代田連絡線とは

帝都線(現京王井の頭線)の永福町駅北にあった車庫が、昭和20年5月25日、米軍による空襲*を受け、同線の電車のほぼ全てが稼働不能となった。
* 同年3月の「東京大空襲」に対し、こちらは「山の手空襲」と呼ばれている。

急遽、同線に電車を送り込むため、同線の代田二丁目(現新代田)駅と小田急線の世田谷中原(現世田谷代田)駅とを結ぶ線路が下の地図のように敷設された。

 
内山模型製図社「北沢警察署管内全図」同/昭和25年ころ・刊 抜粋
 






































■まず…
同線を経由して、同年6月23日に、小田急線から2両の電車、つまり、デハ1206号車とクハ1318号車が帝都線に移されたという*。
*山岸庸次郎「過ぎ去りし日々の思ひ出」(鉄道ピクトリアル№432〔33巻9号(1983/9臨増)〕pp.98-103)

■最近…
とある目的から、このうち「デハ1206」の、ある程度細な写真か図面が必要になった。
そこで、手許の資料で、この電車の素性を調べてみると、この車両は
  • 小田急開業時に製造された甲号車、つまり、「直通電車」と称する新宿と稲田多摩川(現・登戸)間は経堂のみ停車して小田原に向かう、トイレと手荷物室のついた、デハ(後モハニ)101シリーズ中の106形であり
  • いわゆる大東急統合時に、車番をデハ1201シリーズ中の1206に改名されたものであること
  • デ〔「電動機」のデ〕ハといっても、電動機は井の頭線入線後に装備された*こと
*前掲山岸
 もちろん、製造時には電動機付だったのだが、何らかの事情で電装は外されていたたのだろう


などが判明した。

■このシリーズの電車については…
そこそこ写真は遺されているので、外観のあらかたはわかったものの
  • この電車は、トイレと荷物室部分の楕円形の戸袋窓が特徴といえるのであるが、それが車両の新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない
  • 同様にパンタグラフも新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない
という問題があった。

 とくに、パンタグラフは新宿寄りに統一されてたらしいことまではわかってきたが、甲号車の系列の特徴ともいえる楕円窓の位置は写真が不鮮明なせいもあってまちまちに見え法則性がつかめない。

■ところが…
手持ちの資料中で最も新しいため「これには載っていないだろう」と後回しにしていた
鉄道ピクトリアル№829〔2010年1月臨増〕「【特集】小田急電鉄」号
の中に、デハ106ドンピシャで非常に鮮明な写真が掲載されていたのである。

 それが
白土貞夫「絵葉書が描く 昔日の小田急電鉄 箱根登山鉄道」(pp.81-85)
のp.82中段の
「小田原急行鐡道 鶴巻驛」
とのタイトルの、小田急が開通当時制作・配布したとみられる絵葉書




で、
  • 開け放されたドアや窓から制服姿の多数の人物が顔を出していること
  • 2両編成中、手前の1両目が紛れもなく甲号車であるデハ106なのに対し、2両目は、新宿と稲田登戸間の近距離輸送用の乙号車つまりデハ1シリーズであること
  • 手前側のプラットホームの盛土も構内横断場も工事が未了であること
  • 駅舎のモルタル壁が未完成(まだ仕上の上塗り前に見える)にみえること
からみて、開業前の研修時の記念写真を兼ねて撮影されたものと見られる。

■写真からみると…
  • 開通当初、鶴巻(現・鶴巻温泉)駅の駅舎は線路の南側にあったとされているうえ
  • それを措いても、写真の上方やや左に、丹沢大山の特徴のある山影が写り込んでいる
のだから、写真右手が新宿方向であることに疑う余地はない。

 結局、少なくとも、代田連絡線を経由して、最初に帝都線に回送された、小田急線用のデハ1206形は、パンタグラフ、楕円窓ともに新宿寄りに設けられていた*ことが判明したのである。

*生方良雄「私鉄電車めぐり(37)小田急電鉄」(鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1「小田急電鉄1950-60」pp.42-71)のp.51「図-5」でも、モハ101形のトイレ/手荷物室は新宿寄りに配置されている。

■尤も…

大幡哲海「小田急電鉄の車両」JTBキャンブックス鉄道42
のp.83掲載の、故萩原次郎氏が昭和13年3月に世田谷中原(現・世田谷代田)駅で撮影したデハ108形の写真では、パンタグラフは新宿小田原寄りであるが、楕円窓は小田原新宿寄りにある*。

*線路越しの写真で奥側の線路に停車中の電車に付いている方向板を、改めてスキャナで拡大してみると「新宿」とあった。

 このデハ101シリーズは、12両全車が日本車両製のようなので、製造会社の違いによるものとも思えないので、唯一の可能性としては、トイレ・手荷物室を、前半のデハ101~106は新宿寄り、後半の同107~112は小田原寄りに設置して、2両で編成を組むときに(それが原則だったようであるが)、前半の車両を新宿寄り、後半の車両を小田原寄りに組み合わせて、トイレ・手荷物室が編成の両端に来るように配慮したとしか考えようがないのではなかろうか。

■追補

 生方・前掲p.52によれば「パンタグラフ台は前後2箇カ所にあったが,パンタは1カ所で101~107…は新宿寄りに,108~112…は小田原寄りに付いていた.」とのことである。

  たしかに、同p.42の写真「東北沢駅のモハニ101形107…」によれば、楕円窓はパンタグラフと同一方向(背景の一面の畑からみて新宿方向と思われる*)にある。

*【参考】

三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 口絵写真
画面左手奥が、昭和2年当時の東北沢停車塲
キャプションにある「下山谷475」は、小田急線の南に位置していた

























なお、同p.52によれば、楕円窓のガラスは「ダイヤガラス」だったことに加え、同ページに以下のような記述もあった。

「1936(昭和11)年頃から半室運転室に改造を始めた.最初は長手方向がやや窮屈だったが,後方の窓を500㎜に縮め広げた.次いで1941(昭和16) 年頃からクロスシートのロングシート化,荷物室撤去を,1946(昭和21)年頃から便所の撤去を行った.」

2019年2月13日水曜日

「東から下北沢、西から松原が押し寄せてくる」

北沢川文化遺産保存の会掲示版から再録


■タイトルの…

ように、代田を評したのが、当の代田の古老、今津博さんでした。

2007代田フェスタ




















感覚的にはなんとなくわかるものの、さて、何か裏付けは…とかねがね思っていたのですが、偶然、何と、それを「数値化」した「論文」を発見。

大佛 俊泰 外「建物名称の空間分布からみた地域イメージの魅力度分析」日本建築学会計画系論文集 69 巻 (2004) 576 号 101-107

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/576/69_KJ00004227016/_pdf/-char/ja

■その結論は…


(論文の)p.104の「表1」にあるので、画像で引用します





が、魅力度の数値は、やや乱暴にくくると(詳しくは論文の本文で)ある名称の駅や町から、離れた場所の建物にも、その名称が使われる傾向の大小を示しています。

■ 世田谷の…

断トツは、「二子玉川」〔7.31ポイント〕で、「下北沢」は実質2位〔5.91ポイント〕(ただし、「下北沢」は駅名しか命名要因がない)。「松原」は18位〔4.95ポイント〕、「代田」は今津説の示唆するとおり57位〔2.84ポイント〕。

「池ノ上」でさえ26位〔4.42ポイント〕とされてるところからみると、おおむね、5.0ポイント前後から上が「本当は違うけど付けたくなる名前」と考えてよさそうです。

2018年12月13日木曜日

六郎次山〔根津山〕

■その植生

「茶」畑などを除けば、近世期の植生をほぼ承継していると見られる明治初期の迅速測図

M13測 迅速測図 手描彩色図

M13測M30修測 1/20000「内藤新宿」

迅速測図 凡例 抜粋


 を見ると、「内藤新宿」図では「雑木林」となっている地域が、彩色図では「榑」〔フ・ブ/くれ〕と「雑」に描き分けられている。

 小椋純一「明治10年代における関東地方の森林景観」(造園雑誌57-5〔1994〕)


では、これらを共に「ナラ・クヌギ」林と解釈しているが(同p.80)、この図の場合(関東一円が900枚余りの図幅に分かれており各図ごとに微妙に表現が異なっている)は、隣接する両者の領域が明確に区分されているので、両者の植生は異なっていた、と考えざるを得ない。

 そのうち「榑」については、文字の意味(板材・薄板のほか薪の意味がある)からみても、

・萌芽更新が可能な程度に、幹や枝を定期的に伐採し薪として使用/売却する

・下草や秋の落葉を集めて堆肥の原料にする

という、小椋論文のいうような、ナラ・クヌギを主とする実用のための落葉広葉樹の人工林を示していることはまず間違いない。
 と、なると、「雑」の方は、それ以外の、たとえばカシ、シイ、タブなどの常緑広葉樹を中心とする自然林というかむしろ当地の極相林に近い植生の場所を示していると考えられる。

 結局、この六郎次山の南側は、自然林に近い常緑広葉樹林(「雑」)と、人工林である落葉広葉樹林(「榑」)および杉林(「杉」。他に使い途のない傾斜地のため、建築用材などとして自己使用したり売却するために造林したものと思われる)がモザイク状に混在していて、そのうち、「榑」は、薪山として機能していたと思われる(以上、末尾の「武蔵野の昔」参照)。

 その意味で、上記彩色図の「榑」 の範囲については、近隣の入会の薪山だった可能性を否定はできない(もっとも、それには面積がやや狭いという問題が残る*)。
* 只木良也「雑木林の仕組みと働き」森林科学21巻(1997)pp.31-35
 によれば、畑地を維持する堆肥を得るには、その倍以上の面積の落葉広葉樹林が必要だったという
 (同p.16)

 これに対し、六郎次山のうち、今の羽根木公園の北側については、その東寄りの部分は畑として利用されていたし、また、
根津山・六郎次山遺跡調査会・編「根津山遺跡」世田谷区教育委員会・1986年/刊
によれば、

その一部の発掘調査によっても、現在の野球場周辺から、伊万里焼を含む(p.53)近世期の陶片が出土していて(同p.4,p.47)、この台地の上面に、近世期に人が居住していたことを示している。

 加えて、それらが出土した近世期のものと見られる溝渠中からは、鉄滓も出土しているので(p.53)、六郎次という鍛冶屋が住んでいたというこの山の伝説を、根も葉もない話として捨て去ることができないことがわかる。


【参考】
武蔵野の昔

    :
 國木田氏が愛して居た村境の楢の木林なども、實は近世の人作であって、武蔵野の残影では無かったのである。澁谷邊から西北へ二里も出ると、それが名物四谷丸太の杉林と代って居る。杉林は特に人家に近く立って綿密な管理法が施してあるから、誰が見ても古い天然状態と誤ることは無い。楢林もそれと同じで、江戸の燃料は伊豆の大島から船で喚ぶ程の需要が有ったから、近在の農家では計算上屡々畠に拓くよりも、薪山を立てゝ置くのを有利としたのである。薄山なども草屋根を葺く爲に残して置いたものでも無く、事に由ったら八月御月見の晩の用に、市中へ賣りに出るしろ物であったかも知れぬ。
    :
柳田國男「豆の葉と太陽」( 定本柳田國男集2巻pp.265-432,柳田國男全集〔文庫版〕2巻pp.345-564 )所収


■戦時中

東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷区近代火災史年表」同/1992・刊 のデータを

東京逓信局「世田谷町」逓信協会/T06・刊に記入






斉田平太郎氏蔵『代田村・下北沢地誌』書入

根津山遺跡の調査のため

・直良信夫「東京旧根津山遺跡」
〔日本旧石器時代の研究 (早稲田大学考古学研究室報告第2冊) S29・所収〕
との論文が再録されている
・「世田谷区史料 第8集 考古篇」(世田谷区/S50・刊)
の、巻末近くの逆綴じ部分にある
「逸亡板碑一覧」(p.522(163))
という、当時すでに現存していない区内の板碑のリスト中、かつて(戦災前?)圓乗院に納められていたとする、応安4〔1371〕年のそれに関して、以下のような記述がありました

斉田平太郎氏蔵『代田村・下北沢地誌』書入 「明治廿二年六月、我居宅ノ北二古墓地アリ、今年回葬ノ節応安四年ノ石碑ヲ発掘セリ、明治廿九年迄五百廿五年ヲ経過ス」 この板碑は、斉田平太郎氏旧蔵、圓乗院に納め、戦災のときか、逸亡する。

この斉田平太郎氏蔵『代田村・下北沢地誌』なる文書の素性は

この「世田谷の地名」の別冊「世田谷古地名集」のp.119に

『代 田村、 下北沢村地誌外』 (代田村皇国地誌書上控)
〔斎田平太郎家文書〕

とあり、その「皇国地誌」なるもの、維新直後に企図された、いわば「新編武蔵風土記」とか「江戸町方書上」の新政府版で、ひな形をみると、かなり詳細にわたる内容だったようですが、明治9年だったかの皇居の火災で資料の過半が焼失して頓挫した模様です。

斉田家文書は、代田村名主として新政府に提出した報告書の控と下北沢村の名主(阿川家?)のそれの写しを主体とする文書と思われます。

この斉田平太郎氏蔵『代田村・下北沢地誌』なる文書、あるいは「秋元健次メモ」の典拠かもしれません。現存しているとよいのですが。


代田のだいだらぼっちの池

代田のだいだらぼっち概念図

位置を特定できました。

東京逓信局編「東京府荏原郡世田谷町」(T15)と日本地形社刊3000分の1帝都地形図「羽根木」(S22)の重ね図



2条の「薬研」に挟まれた舌状の台地の先端の下端。
谷底でないところからみて、おそらく斜面が崩落し、そこに湧水があったのでしょう。

この赤線で囲まれた代田1037番は、出頭山の宅地開発にともなって1032番に
合筆され、現在は、その一部になっていますが、現地でも場所の特定は容易です。

【参照】

柳田國男「ダイダラ坊の足跡」


初出:中央公論42巻4号(昭和2年4月)
所収:定本5巻「一目小僧その他」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444010/193


「 東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。

我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである。而うして何人が記憶してゐたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。

二百五十年前の著書「紫の一本」によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイダ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいひ伝ふ云々とある。即ち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としては甚だ振はぬものである。しかし村の名の代田(だいた)は偶然でないと思ふ上に、現に大きな足跡が残ってゐるのだから争はれぬ。

私は到底その旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、早速日を卜して*これを尋ねて見たのである。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研(やげん)になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。」


*柳田は、大正8年(1919年)12月貴族院書記官長を辞任
 代田を訪れたのは、翌9年の1月12日
 したがって、前掲の東京逓信局編「東京府荏原郡世田谷町」(T15)は、ほぼ時期的に整合する



2018年11月2日金曜日

北條家分限帳

*181102現在「代田屯」発見できず

http://www.city.setagaya.lg.jp/kitazawa/12000/12001/12025/d00120133.html

代田

この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は、「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから、大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し、「だいた」になったというものです。(「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成9年3月発行)より引用)




(永禄二己未年十二月十二日)小田原北条家所領役帳. [2]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/54

(永禄二年)北条家分限帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538668

江戸 世田谷/雪ケ谷?
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/46

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00600/i04_00600_0132/i04_00600_0132.pdf
44コマ

小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538679/56

小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538680/48


「原本は小田原落城の折、高野山に落ちていった氏規などにより高野山高室院に保管さ
れていたが後に焼失してしまっている。 しかし、原本焼失前の元禄5年(1692)、
武蔵国豊島郡王子(東京都北区岸町)金輪寺の第5世宥相という僧が写しをとっており、
その後、宥相の写しから更に写しがとられ、それが転写されて現在いくつかの写本が存
在する。 明治になって内務省も写本をとっている。」の系統
http://hitosugi.web.fc2.com/2021.pdf



他に、
「平塚市史編纂の過程で平塚市今井治良氏所蔵の「小田原役帳」が発見された(神
奈川県史)。 これは宥相の写しとは別系統であるといわれ、韮山城主だった氏規の末
裔河内狭山藩主となった北条家伝来のものと伝えられる。」
ものがあるとのこと。
詳細下記
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf

付 妙円寺
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622/171


余談
https://books.google.co.jp/books?id=-RBgDAAAQBAJ&pg=PT9&dq=%E4%BB%A3%E7%94%B0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjb3s7L_bPeAhULZt4KHZ26BwYQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E4%BB%A3%E7%94%B0&f=false