2018年12月13日木曜日

六郎次山〔根津山〕

■その植生

「茶」畑などを除けば、近世期の植生をほぼ承継していると見られる明治初期の迅速測図

M13測 迅速測図 手描彩色図

M13M30修測 1/20000「内藤新宿」

迅速測図 凡例 抜粋


 を見ると、「内藤新宿」図では「雑木林」となっている地域が、彩色図では「榑」フ・ブ/くれと「雑」に描き分けられている。

 小椋純一「明治10年代における関東地方の森林景観」(造園雑誌57-5〔1994〕


ではれらを共に「ナラ・クヌギ」林と解釈しているが(同p.80、この図の場合(関東一円が900枚余りの図幅に分かれており各図ごとに微妙に表現が異なっている)は、隣接する両者の領域が明確に区分されているので、両者の植生は異なっていた、と考えざるを得ない。

 そのうち「榑」については、文字の意味(板材・薄板のほか薪の意味がある)からみて

・萌芽更新が可能な程度に、幹や枝を定期的に伐採し薪として使用/売却する

・下草や秋の落葉を集めて堆肥の原料にする

いう、小椋論文のいうような、ナラ・クヌギを主とする実用のための落葉広葉樹の人工林を示していることはまず間違いない。
 と、なると、「雑」の方は、それ以外の、たとえばカシ、シイ、タブなどの常緑広葉樹を中心とする自然林というかむしろ当地の極相林に近い植生の場所を示していると考えられる。

 結局、この六郎次山の南側、自然林に近い常緑広葉樹林(「雑」)と、人工林である落葉広葉樹林(「榑」)および杉林(「杉」。他に使い途のない傾斜地のため、建築用材などとして自己使用したり売却するために造林したものと思われる)がモザイク状に混在していて、そのうち、「榑」は、薪山として機能していたと思われる(以上、末尾の「武蔵野の昔」参照)

 その意味で、上記彩色図の「榑」 の範囲については、近隣の入会の薪山だった可能性を否定はできない(もっとも、それには面積がやや狭いという問題が残る*)。
* 只木良也「雑木林の仕組みと働き」森林科学21巻(1997)pp.31-35
 によれば、畑地を維持する堆肥を得るには、その倍以上の面積の落葉広葉樹林が必要だったという
 (同p.16)

 これに対し、六郎次山のうち、今の羽根木公園の北側については、その東寄りの部分は畑として利用されていたし、また、
根津山・六郎次山遺跡調査会・編「根津山遺跡」世田谷区教育委員会・1986年/刊
よれば、

その一部の発掘調査によっても、現在の野球場周辺から、伊万里焼を含む(p.53)近世期の陶片が出土していて(同p.4,p.47、この台地の上面に、近世期に人が居住していたことを示している。

 加えて、それらが出土した近世期のものと見られる溝渠中からは、鉄滓も出土しているのでp.53、六郎次という鍛冶屋が住んでいたというこの山の伝説を、根も葉もない話として捨て去ることができないことがわかる。


【参考】
武蔵野の昔

    :
 國木田氏が愛して居た村境の楢の木林なども、實は近世の人作であって、武蔵野の残影では無かったのである。澁谷邊から西北へ二里も出ると、それが名物四谷丸太の杉林と代って居る。杉林は特に人家に近く立って綿密な管理法が施してあるから、誰が見ても古い天然状態と誤ることは無い。楢林もそれと同じで、江戸の燃料は伊豆の大島から船で喚ぶ程の需要が有ったから、近在の農家では計算上屡々畠に拓くよりも、薪山を立てゝ置くのを有利としたのである。薄山なども草屋根を葺く爲に残して置いたものでも無く、事に由ったら八月御月見の晩の用に、市中へ賣りに出るしろ物であったかも知れぬ。
    :
柳田國男「豆の葉と太陽」( 定本柳田國男集2pp.265-432,柳田國男全集文庫版〕2pp.345-564 所収


■戦時中

東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷区近代火災史年表」同/1992・刊 のデータを

東京逓信局「世田谷町」逓信協会/T06・刊に記入






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