代田のだいだらぼっち概念図 |
位置を特定できました。
東京逓信局編「東京府荏原郡世田谷町」(T15)と日本地形社刊3000分の1帝都地形図「羽根木」(S22)の重ね図 |
2条の「薬研」に挟まれた舌状の台地の先端の下端。
谷底でないところからみて、おそらく斜面が崩落し、そこに湧水があったのでしょう。
この赤線で囲まれた代田1037番は、出頭山の宅地開発にともなって1032番に
合筆され、現在は、その一部になっていますが、現地でも場所の特定は容易です。
【参照】
柳田國男「ダイダラ坊の足跡」
初出:中央公論42巻4号(昭和2年4月)
所収:定本5巻「一目小僧その他」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444010/193
「 東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。
我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである。而うして何人が記憶してゐたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。
二百五十年前の著書「紫の一本」によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイダ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいひ伝ふ云々とある。即ち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としては甚だ振はぬものである。しかし村の名の代田(だいた)は偶然でないと思ふ上に、現に大きな足跡が残ってゐるのだから争はれぬ。
私は到底その旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、早速日を卜して*これを尋ねて見たのである。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研(やげん)になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。」
*柳田は、大正8年(1919年)12月貴族院書記官長を辞任
代田を訪れたのは、翌9年の1月12日したがって、前掲の東京逓信局編「東京府荏原郡世田谷町」(T15)は、ほぼ時期的に整合する
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