2022年5月20日金曜日

【再録】【講演録】玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

 

北沢川文化遺産保存の会 第5回研究大会

 (令和01年07月27日 於・梅ケ丘パークホール

での発表

2_1

時の、配布資料

Photo_20190728133501

とプレゼンテーションです。

  2_20190728123001

代田村の村内東北部には玉川上水が流れているため、
持場村として、土手の草刈りや木の枝払い、水路周辺の監視などのために、などにかり出され、苦労を背負いこむ一方で、
上水の水の一部を田んぼのための農業用水に使えるようになった、というメリットも受けている面もある。

【後補】
東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 pp.80-81によれば、代田村の村髙は

時期村髙田髙畑髙 
正保年間(1644-1648)75石32石43石玉川上水/北沢用水/三田上水開鑿前
文政13年(1830)533石69石464石 玉川上水/北沢用水/三田用水開鑿後


4_20190728123201

 5_20190728123201

6_20190728123201 

 

7_20190728123201

8_20190728123201

9_20190728123201

10

11

【余談】我が家は、この水路沿いにあるので…

12

このお酒は、多摩川上流の青梅線の沢井駅最寄りの湧水で作られているという。

つまり、この湧水の水の一部は、昭和初めまで我が家の真ん前を流れ、我が家の地面にも浸み込んでいることになる。

地鎮祭の「お守りください」という意味でのお神酒や、

隣地にあった祖父の家の井戸を埋めるときの「お鎮まりください」という意味のお清めの酒

として、この澤乃井以上のものはあり得ないだろう。

 

上水記などには書かれていないが…

13

14

品川筋(品川用水)、上北沢筋(上北沢用水)などのような、
代田筋(代田用水)があったことになるし、
現に、この絵図の右上に「代田用水」と書かれている。

15

横方向の黒い線が玉川上水。その上下の薄色の線が甲州道中。したがって、代田の文字の直上が代田橋。
上水にくっついている四角いものが、左端の上北沢用水の例から水を分ける分水口であることがわかる。
しかし、代田用水については、分水口は描かれているが、そこからの水路の線がない。
しかし、よく見ると、「代田」という文字を囲む丸枠の右上が欠けている。
これは、当初描かれていた分水口と代田の丸枠を結ぶ水路の線が、白い絵の具で抹消された(現代の「ホワイト」と同じ)ことを示すと思われる。

実は、この代田用水、未だ玉川上水をめぐる文献では目にしたととはないが…
幕府の玉川上水の管理記録である、「玉川上水留」(十七ノ百八十八第七棚)
国会図書館・蔵<
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423>
にしっかり記録されていた。

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25
代田村を流れる3本の川のうち、2本についてはすでに三田用水からの分水が接続されている。
したがって、この代田用水は、ダイダラボッチ川に接続されていたとしか考えられない。

26

白い部分に、曲がりくねった古道の雰囲気の道路がある。
京王線あたりからの勾配からみて水路跡と考えても矛盾がない。

28

上の道路が水路跡とすると、この代田用水は、里俗・ダイダラボッチ川の
同じく宇田川湯支流に接続されていたらしいことになる。

29

GoogleMap「代田用水」

 

31

32

ここまでの記録では、代田用水は1770年から1861年まであったことになる。
しかし、この間の上水記記載の分水の調査記録のどちらにも載っていないのは不可解。

しかも、1861年の文書に、勘定奉行が登場するのも不可解。
なぜなら…

33

34

しかし、この「ファイル」の末尾に、とって付けたように、下記の文書が…

35

宛先の4名中、山川下総守が、目付だったことは判明した。
と、いうことは、他の3名のうち、1名は普請奉行、もう1名は勘定吟味役
残りの1名はもう一人の目付だったのではないか。

結局、代田用水は、以下のような経過をたどったことになる。

36

37

もっとも、それでも、「計算が合わない」部分がある。

38

あるいは、玉川上水の分水は、後世の我々が想像する以上に、頻繁に、新設・閉止が繰り返されていたのかもしれない。

上水記だけにしがみついていても、ここでもその一例示せたように、ダイナミックな玉川上水の歴史には到底届かないのではなかろうか。

39_20190728132301

40

41

42

【追記】

小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」(公財)とうきゅう環境財団/2014・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf
によれば

昭和27年8月 北沢用水普通水利組合は北沢用水土地改良区に改組され(p.108)
同土地改良区は、昭和39年3月には組合員19人により存続していた(p.146)

という。

 

【再録】「代田用水」とは「何ぞや?

 代田用水は存在したのか?

【結局】この後、ちょっとおもしろい結論に達しました。

その結末は
当ブログの

玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/07/post-c904be.html

 をご覧ください・

図書館から借りてきた…

世田谷区「世田谷区史料 第3集」同/1960・刊の口絵16図
「品川・烏山・上北沢・代田筋用水村々略絵図」(以下「絵図」)
を眺めていましたら、不可解な記載があるのに気が付きました。

 この図

Daitaditch

は、現在の世田谷区の区域内の玉川上水の分水、つまり、左側の上流部から順次、品川用水、烏山用水、北沢用水の水路と水路沿いの村を示した略図なのですが、それらのさらに下流に「代田用水」なる文字があります。

【補註】世田谷区政策経営部政策企画課区史編さん・編
    「世田谷往古来近」同/H29・刊 のp.97により、
    上図が、

    世田谷領用水堀絵図中の「玉川上水および分水諸用水堀図」
    (大場代官屋敷保存会蔵)

    であることがわかった。

 また、絵図には、それぞれの分水の分水口が玉川上水沿いに中抜きの長方形で描かれているのですが、その例に従うと、この「代田村水」なるものの分水口は、代田橋の下流、芥留と水番屋

00017_

付近で、上図のように代田橋と芥留等は近接しているので、おそらくは、それらの下流にあったことになります。

*周囲に数本設置されている高札の記載事項は、国立公文書館・蔵
 「上水記」巻の9 8丁裏 にある
 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000032134&ID=M2010021620324147018&LANG=default&GID=&NO=8&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1

 ただし、絵図に描かれているのは分水口だけで、「代田用水」という以上、当然描かれるはずの、そこからの水路(名称から素直に考えれば代田村までの水路)は描かれていません。

 もっとも、それが最初から描かれていなかったかというと別問題で、江戸時代の玉川上水図などにも例がありますが、図面を改訂するときに、従前の記載事項を地色に近い絵の具で塗りつぶして抹消し、必要に応じそこに上書きしている例も多い(顔料系の泥絵の具なので、比較的容易にできる)ので、絵図の「代田村」という文字を囲う長円の線の右上が欠けているとところからみても、その可能性が高いように思われます。

と、いうのは…

烏山用水について、この絵図には分水口らしい四角形が2つ並んで描かれていて、分水口から烏山村までの水路も、その「塗りつぶし+上書き方式」で改訂されている可能性が高く、しかも、そのような分水口の変更については

世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S58・刊

の「烏山川(烏山用水)」の条にある、〔万治2(1697)年〕「樋口は最初烏山村地内に設けられ,1尺四方・長さ9尺の樋を伏せたが,そののち上北沢用水と同じく上高井戸村地内に移され,水口5寸となり,…」(p.77)との史実と合致しているからです。

 ちなみに,「同じく」とある「上北沢用水」についての同書の記述によれば「取水口は,最初上北沢村内牛窪に設けられ,樋口1尺4寸・長さ9尺とあり,天明8年(1788)上高井戸村第六天前に移されて方1尺となり,…」(p.80)とあるのですが、上北沢用水については、この絵図中に分水口が移転された痕跡はありませんので、どうやら、この絵図が作られたのは、その天明8(1788)年以降ということになりそうです。

しかし…

この「代田用水」なる分水について言及したものは、これまで見てきた玉川上水に関する文献に関する限り(つまり、いわゆる「管見の及ぶ限り」-便利ですね、この言葉-ではありますが)見たことがありません。

 そこで、改めて、何か史料はないものかと探してみたところ

国会図書館のデジタルライブラリ中
「玉川上水留」の [87]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423?tocOpened=1

玉川上水堀通代田村下北沢村下馬〔註:「高」の誤〕井戸村分水口起立書抜并御勘定奉行より当時代田村引取無之候ニ付残歩丈ヶ上郷分水口増樋掛合書 但野方堀通村々引取分水口廉書品川用水三田用水分水口御普請一件 文久元酉年六月 御金方
なる文書があることがわかりました。

 読んでみると、といっても何分古文書まして公式文書の原本なら「固い字」で書かれているのでしょうが、この文書のはその写しであることも加わってスラスラ読める道理もなく、とりあえず当面は「読めるところだけ拾い読み」するほかないのですが、どうやら

・明和8(1771)年に、いわば代田村と下北沢村連名の出願により(同18~21コマ)、
 玉川上水に「圦樋長三間内法三寸四方」(同27コマ)
 の代田用水の分水口が設けられた。

その後の経緯・理由については、まだ読み取れないのですが、

・これを文久1(1861)年になって廃止し、
 その分「上北澤村分水口」を「増樋」(つまり、そちらの分水口を拡げた)した(同10コマ)

ということのようです。

 もっとも、この文書の末尾近く(58コマ~)にも、天明5(1785)年の同様の案件の記録があり*、これらの関係はまだ不明なのですが、天明期の案件がそのまま実現されていれば、文久期にあらためて詮議する必要もなかったことや、前述したこの地図の作製時期からみると、天明期のは、いわばアイデアとして出たものの実現はしなかった、と考えるのが素直なように、いまのところ考えています。

*おりしも天明の大飢饉の最中であり、水があっても収量が上がらないので水料米の負担に耐えられなくなったた可能性がある。

【追記】

昨6月22日朝、突然思い至った。
その発想で、原文を読み直すと、どうやら正解。
2019年7月22日開催の北沢文化遺産保存の会 の研究大会
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52091878.html
で発表後、パワーポイントによる資料を含めて、ここに追記することにする。

 いずれにせよ、先の、絵図にある代田分水の「水路のない分水口」は、この文書の経緯を反映しているのではないかと思われます。

代田用水はどこを流れていたのか

この…

「一時は実在したことが確からしい」代田用水。

 次に問題になるのは、どこをどう流れていたかにあります。

 実は、玉川上水の分水といっても2つのタイプがあって、

・その一つは、玉川上水と同様に、台地の稜線の上を流れるタイプ
  典型が、千川上水と三田用水。それと、かなり無理はしていますが絵図中の品川用水

・もう一つは、自然河川、したがって台地の中の谷につなげるタイプ
  典型が、絵図中にもある、烏山用水と(上)北澤用水

で、より遠くまで水を送るには前者が理想ですが、それには、もともとそれを可能とするような地形に恵まれていなければなりません。

あえて…

根拠を挙げ*、さらにそのまた根拠を挙げだすと、えらく長ったらしい話になることが分かったので、結論をいえば、この代田用水は、下図

Photo_3

のように、北沢川((上)北澤用水)の支流の一つ。里俗(「現地での俗称」という意味。以下同じ)・森厳寺川のそのまた支流の里俗・だいだらぼっち川の谷頭につながっていた可能性が一番高いと思われます。

*「あえて」一次的な根拠を挙げれば
・地形的にみて、玉川上水から南に水を流せば、ほどなく北沢川((上)北澤用水)に落ちるので、
長距離の送水は必要ない
・あえて稜線上を流そうとすると、西の世田谷区村飛地の羽根木との境界の「堀の内道」か、東
 の下北澤村との境界の「里俗・鎌倉道」に沿って水路を拓く必要があるが、そのような痕跡が
  ない
・加えて、その稜線上の水路から、水田を設けることが唯一可能な「だいだらぼっち川」までの分
 水路がいくつか必要だが、その痕跡もない
・そもそも、「だいだらぼっち川」沿いの、明治期の地租改正時の地番割をみても、そのような本格
 的な用水路を必要とするほどの水田はなく、「だいだらぼっち川」の堰上げによる灌漑で対応で
  
きる程度の水田の面積と考えられる。

 

2022年5月18日水曜日

【再録】柳田國男のダイダラボッチ探訪時の地図

 ■代田の…

ダイダラボッチの重要文献の一つ、柳田國男の「一つ目小僧その他」>「ダイダラ坊の足跡」>「巨人来往の衝」(「定本柳田國男集」〔以下「定本」〕5巻pp.306‐) (なお、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444010/193 ) )中のダイダラボッチの探訪記録には、以下のように記されている。*

七年前に役人を罷めて**気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである***。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先上がりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れるとみえて中央が薬研になっており、腫の処まで下るとわずかな平地に、小さな堂が建ってその傍に涌き水の池があった。すなわちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。
 あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。それを読んでいた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向って巡礼を続けたのである。(pp.306‐307)

*この論考の初出は、中央公論昭和2年4月号。
**柳田が「役人を罷め」た、つまり貴族院書記官長を退官したのは大正8年12月24日(「定本」別巻5〔以下「索引」〕)p.633)
***ダイダラボッチの探訪は、大正9年1月12日(前同)

■そのとき…

 柳田が参照していた「武蔵野会の雑誌」とは、時期的にみて、同会発行の「武蔵野」の
第2巻第2号(大正8年7月刊)鈴木堅次郎「駒沢行」(同号pp.75-78)
第2巻第3号(大正8年12月刊)谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」(同号pp.34-38)
以外には考えにくい。

 しかし、どちらの論考にも、地図や絵図が掲載されているわけではなく、文章上も、やや詳しい後者であっても「代田の藥師様のある窪地」あるいは「野澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもある由」、「荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村狢窪といふ所」(p.35)とあるだけなので、いわゆる土地鑑がない以上は、目的の「窪地」を探すのにも、途中の経路を「たどる」のにも、地図が必携といえる。

【参照】出穂山トライアングル+だいだらぼっち on google map

■幸い…

だったと思われることは、柳田は、当時すでに、いわゆる郷土研究や地名研究の資料として地図を重要視していて、ちょうど、この探訪の直前の大正7年から8年にかけて、雑誌「都會と農村」(?・刊)(4巻11号~5巻2号)に発表した論考に以下のようなものがある。

自分が此度の経験に由って、何よりも必要と感じましたのは、右の目的をも含む地圖の準備であります。…陸地測量部で作った五萬分一圖や二萬分一圖は、旅人には或は詳し過ぎるかも知りませぬが、立止って生活を觀んとするものにはまだ物足りませぬ。其と云ふのが地形には忠實であつても、兎角に地名を邪魔にする傾きがある爲に、人と天然との関係が分らぬのです。

〔「郷土誌論」>村を觀んとする人の爲に」>「準備地圖」(定本25巻p.52)〕

 また、時期的には少し後になるが、大正15年5月発行の、雑誌「民族」(民族発行所・刊)第1巻第4号で発表した「地名考説」には

地圖の話の序に尚言ふならば、陸地測量部の二萬分一地形圖は、地名研究者に取っては今では何よりも有益な資料である。二萬分一の無い區域は五萬分一に依る他は無いが、地名の数量は隻方同じで無い迄も、大して相違は無いやうに思ふ。

〔「地名の研究」>「地名考察」>「二 地名研究の資料」(定本20巻p.76)〕

とあって、柳田は、2万分の1と5万分の1の地形図を、主に地名研究のために、言い換えれば調査や旅行の対象地以外の地域についても、かなり広く集積し、ときとして両者を比較対照していたと想像される。

■実は…

柳田の、代田・駒沢行きのときには、陸地測量部は、従来からの2万分の1と5万分の1の地形図のほかに、すでに、2万5000分の1と1万分の1の地形図も順次発行を開始しており、代田・駒沢に関する地形図は、当時の最新版を挙げると、以下のとおりとなる

5万分の1M44縮T02鉄補東京西南部 
2万5000分の1 T06測T08鉄補東京西南部 
2万分の1M42測T02鉄補T06改版 世田谷 
1万分の1  M42測T05修測  世田谷  (代田)
  〃M42測T04修測 碑文谷(駒沢・碑衾・千束)

  興味は、柳田が牛込加賀町の家から代田に向かう*ときに携えていたのは、このうち、どの地図なのか、にあった。

*市ヶ谷見附から9系統の市電に乗り、四ツ谷見附で3系統に乗換え、追分で京王電車に乗換えて代田橋に至ったのだろう
 http://toden.la.coocan.jp/route_history_test/t08/route_t08.html 参照

314ct
大正7年9月に神奈川県津久井郡で撮影(当時44歳)
巡検中らしく疲労の色がみえる。

■一般論としては…

これらのうち、最も大縮尺の1万分の1ということになるのだろうが、地図を選ぶには、目的に応じた「使い勝手」も重要である。

 その意味では、目的地であったことが確実な代田と駒沢が、2葉に分かれている点では使い勝手に劣るし、まして、この地図は代田から駒沢への移動時にも必要なのだから、より小縮尺でも解像度に問題がないのなら、できれば避けたいところだろう

*5年ほど前、北海道の道東地区を、簡易軌道と呼ばれた軽便鉄道の痕跡を求めて、車で走りまわったことがある。
 
場所柄、2万5000分の1の地図だと、ほとんど際限のない枚数が必要になることから、5万分の1の地図を持っていったのだが、正解だった。
 仮に2万5000分の1地図を持って行っても、図郭の範囲は、大略南北9㎞×東西11㎞なのだから、1枚分を「あっという間に通り抜けてしまう」ことになるからである。

■そこで…

手許にあるこれらの4図の、代田のダイダラボッチの部分を、ほぼ同じサイズになるように切り出してみた*

Dij50k 1/50000

Dij25k  1/25000

Dij20k  1/20000

Dij10k 1/10000

*なお、これら、どの縮尺の地図でも、代田橋や京王電車の代田橋停留場は、北隣の図郭になる。

さすがに…

1万分の1は精細である一方、5万分の1では針葉樹や水田の記号と等高線が重なっていることもあって「足先の割れた」独特の地形を読み取りにくいなど解像度不足であることがわかる。

 これに対し、2万分の1でも2万5000分の1でも、代田のダイダラボッチの特徴ある地形を確実に読み取ることができ、1万分の1と比べても解像度はほぼ遜色ないといえる*

*もっとも、これは当地が郊外地だからで、市街地については別論

■そうなると…

その2図のうちどちらかということになるが、2万5000分の1の地形図は、図歴を見るとわかるように、いわば後発の規格であり、この図の発売時には、柳田は既に2万分の1を入手していた可能性が高いので、そのスケール感に慣れていたと思われるし、現物をみるとわかるが、図郭の最下端近くに千束村こと馬込村千束の貉窪が納まっている

Pdfsam_m42t0621_e
1/20000図の貉窪

ので、柳田のこの時の目的に照らせば、理想的な地図だったといえそうである。

          

【再録】【講演録】玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

北沢川文化遺産保存の会 第5回研究大会

 (令和01年07月27日 於・梅ケ丘パークホール

での発表

2_1

時の、配布資料

Photo_20190728133501

とプレゼンテーションです。

  2_20190728123001

代田村の村内東北部には玉川上水が流れているため、
持場村として、土手の草刈りや木の枝払い、水路周辺の監視などのために、などにかり出され、苦労を背負いこむ一方で、
上水の水の一部を田んぼのための農業用水に使えるようになった、というメリットも受けている面もある。

【後補】
東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 pp.80-81によれば、代田村の村髙は

時期村髙田髙畑髙 
正保年間(1644-1648)75石32石43石玉川上水/北沢用水/三田上水開鑿前
文政13年(1830)533石69石464石 玉川上水/北沢用水/三田用水開鑿後


4_20190728123201

 5_20190728123201

6_20190728123201 

 

7_20190728123201

8_20190728123201

9_20190728123201

10

11

【余談】我が家は、この水路沿いにあるので…

12

このお酒は、多摩川上流の青梅線の沢井駅最寄りの湧水で作られているという。
つまり、この湧水の水の一部は、昭和初めまで我が家の真ん前を流れ、我が家の地面にも浸み込んでいることになる。
地鎮祭の「お守りください」という意味でのお神酒や、
隣地にあった祖父の家の井戸を埋めるときの「お鎮まりください」という意味のお清めの酒
として、この澤乃井以上のものはあり得ないだろう。

 

上水記などには書かれていないが…

13

14

品川筋(品川用水)、上北沢筋(上北沢用水)などのような、
代田筋(代田用水)があったことになるし、
現に、この絵図の右上に「代田用水」と書かれている。

15

横方向の黒い線が玉川上水。その上下の薄色の線が甲州道中。したがって、代田の文字の直上が代田橋。
上水にくっついている四角いものが、左端の上北沢用水の例から水を分ける分水口であることがわかる。
しかし、代田用水については、分水口は描かれているが、そこからの水路の線がない。
しかし、よく見ると、「代田」という文字を囲む丸枠の右上が欠けている。
これは、当初描かれていた分水口と代田の丸枠を結ぶ水路の線が、白い絵の具で抹消された(現代の「ホワイト」と同じ)ことを示すと思われる。

実は、この代田用水、未だ玉川上水をめぐる文献では目にしたととはないが…
幕府の玉川上水の管理記録である、「玉川上水留」(十七ノ百八十八第七棚)
国会図書館・蔵<
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423>
にしっかり記録されていた。

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25
代田村を流れる3本の川のうち、2本についてはすでに三田用水からの分水が接続されている。
したがって、この代田用水は、ダイダラボッチ川に接続されていたとしか考えられない。

26

白い部分に、曲がりくねった古道の雰囲気の道路がある。
京王線あたりからの勾配からみて水路跡と考えても矛盾がない。

28

上の道路が水路跡とすると、この代田用水は、里俗・ダイダラボッチ川の
同じく宇田川湯支流に接続されていたらしいことになる。

29

GoogleMap「代田用水」

 

31

32

ここまでの記録では、代田用水は1770年から1861年まであったことになる。
しかし、この間の上水記記載の分水の調査記録のどちらにも載っていないのは不可解。

しかも、1861年の文書に、勘定奉行が登場するのも不可解。
なぜなら…

33

34

しかし、この「ファイル」の末尾に、とって付けたように、下記の文書が…

35

宛先の4名中、山川下総守が、目付だったことは判明した。
と、いうことは、他の3名のうち、1名は普請奉行、もう1名は勘定吟味役
残りの1名はもう一人の目付だったのではないか。

結局、代田用水は、以下のような経過をたどったことになる。

36

37

もっとも、それでも、「計算が合わない」部分がある。

38

あるいは、玉川上水の分水は、後世の我々が想像する以上に、頻繁に、新設・閉止が繰り返されていたのかもしれない。

上水記だけにしがみついていても、ここでもその一例示せたように、ダイナミックな玉川上水の歴史には到底届かないのではなかろうか。

39_20190728132301

40

41

42

【追記】

小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」(公財)とうきゅう環境財団/2014・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf
によれば

昭和27年8月 北沢用水普通水利組合は北沢用水土地改良区に改組され(p.108)
同土地改良区は、昭和39年3月には組合員19人により存続していた(p.146)

という。