■代田連絡線とは
帝都線(現京王井の頭線)の永福町駅北にあった車庫が、昭和20年5月25日、米軍による空襲*を受け、同線の電車のほぼ全てが稼働不能となった。
* 同年3月の「東京大空襲」に対し、こちらは「山の手空襲」と呼ばれている。
急遽、同線に電車を送り込むため、同線の代田二丁目(現新代田)駅と小田急線の世田谷中原(現世田谷代田)駅とを結ぶ線路が下の地図のように敷設された。
■まず…
同線を経由して、同年6月23日に、小田急線から2両の電車、つまり、デハ1206号車とクハ1318号車が帝都線に移されたという*。
*山岸庸次郎「過ぎ去りし日々の思ひ出」(鉄道ピクトリアル№432〔33巻9号(1983/9臨増)〕pp.98-103)
■最近…
とある目的から、このうち「デハ1206」の、ある程度細な写真か図面が必要になった。
もちろん、製造時には電動機付だったのだが、何らかの事情で電装は外されていたたのだろう
などが判明した。
■このシリーズの電車については…
そこそこ写真は遺されているので、外観のあらかたはわかったものの
とくに、パンタグラフは新宿寄りに統一されてたらしいことまではわかってきたが、甲号車の系列の特徴ともいえる楕円窓の位置は写真が不鮮明なせいもあってまちまちに見え法則性がつかめない。
■ところが…
手持ちの資料中で最も新しいため「これには載っていないだろう」と後回しにしていた
鉄道ピクトリアル№829〔2010年1月臨増〕「【特集】小田急電鉄」号
の中に、デハ106ドンピシャで非常に鮮明な写真が掲載されていたのである。
それが
白土貞夫「絵葉書が描く 昔日の小田急電鉄 箱根登山鉄道」(pp.81-85)
のp.82中段の
「小田原急行鐡道 鶴巻驛」
とのタイトルの、小田急が開通当時制作・配布したとみられる絵葉書
で、
■写真からみると…
結局、少なくとも、代田連絡線を経由して、最初に帝都線に回送された、小田急線用のデハ1206形は、パンタグラフ、楕円窓ともに新宿寄りに設けられていた*ことが判明したのである。
*生方良雄「私鉄電車めぐり(37)小田急電鉄」(鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1「小田急電鉄1950-60」pp.42-71)のp.51「図-5」でも、モハ101形のトイレ/手荷物室は新宿寄りに配置されている。
■尤も…
大幡哲海「小田急電鉄の車両」JTBキャンブックス鉄道42
のp.83掲載の、故萩原次郎氏が昭和13年3月に世田谷中原(現・世田谷代田)駅で撮影したデハ108形の写真では、パンタグラフは新宿小田原寄りであるが、楕円窓は小田原新宿寄りにある*。
*線路越しの写真で奥側の線路に停車中の電車に付いている方向板を、改めてスキャナで拡大してみると「新宿」とあった。
このデハ101シリーズは、12両全車が日本車両製のようなので、製造会社の違いによるものとも思えないので、唯一の可能性としては、トイレ・手荷物室を、前半のデハ101~106は新宿寄り、後半の同107~112は小田原寄りに設置して、2両で編成を組むときに(それが原則だったようであるが)、前半の車両を新宿寄り、後半の車両を小田原寄りに組み合わせて、トイレ・手荷物室が編成の両端に来るように配慮したとしか考えようがないのではなかろうか。
■追補
生方・前掲p.52によれば「パンタグラフ台は前後2箇カ所にあったが,パンタは1カ所で101~107…は新宿寄りに,108~112…は小田原寄りに付いていた.」とのことである。
たしかに、同p.42の写真「東北沢駅のモハニ101形107…」によれば、楕円窓はパンタグラフと同一方向(背景の一面の畑からみて新宿方向と思われる*)にある。
*【参考】
なお、同p.52によれば、楕円窓のガラスは「ダイヤガラス」だったことに加え、同ページに以下のような記述もあった。
「1936(昭和11)年頃から半室運転室に改造を始めた.最初は長手方向がやや窮屈だったが,後方の窓を500㎜に縮め広げた.次いで1941(昭和16) 年頃からクロスシートのロングシート化,荷物室撤去を,1946(昭和21)年頃から便所の撤去を行った.」
* 同年3月の「東京大空襲」に対し、こちらは「山の手空襲」と呼ばれている。
急遽、同線に電車を送り込むため、同線の代田二丁目(現新代田)駅と小田急線の世田谷中原(現世田谷代田)駅とを結ぶ線路が下の地図のように敷設された。
内山模型製図社「北沢警察署管内全図」同/昭和25年ころ・刊
抜粋
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■まず…
同線を経由して、同年6月23日に、小田急線から2両の電車、つまり、デハ1206号車とクハ1318号車が帝都線に移されたという*。
*山岸庸次郎「過ぎ去りし日々の思ひ出」(鉄道ピクトリアル№432〔33巻9号(1983/9臨増)〕pp.98-103)
■最近…
とある目的から、このうち「デハ1206」の、ある程度細な写真か図面が必要になった。
そこで、手許の資料で、この電車の素性を調べてみると、この車両は
- 小田急開業時に製造された甲号車、つまり、「直通電車」と称する新宿と稲田多摩川(現・登戸)間は経堂のみ停車して小田原に向かう、トイレと手荷物室のついた、デハ(後モハニ)101シリーズ中の106形であり
- いわゆる大東急統合時に、車番をデハ1201シリーズ中の1206に改名されたものであること
- デ〔「電動機」のデ〕ハといっても、電動機は井の頭線入線後に装備された*こと
もちろん、製造時には電動機付だったのだが、何らかの事情で電装は外されていたたのだろう
などが判明した。
■このシリーズの電車については…
そこそこ写真は遺されているので、外観のあらかたはわかったものの
- この電車は、トイレと荷物室部分の楕円形の戸袋窓が特徴といえるのであるが、それが車両の新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない
- 同様にパンタグラフも新宿寄りにあるのか小田原寄りにあるのかわからない
とくに、パンタグラフは新宿寄りに統一されてたらしいことまではわかってきたが、甲号車の系列の特徴ともいえる楕円窓の位置は写真が不鮮明なせいもあってまちまちに見え法則性がつかめない。
■ところが…
手持ちの資料中で最も新しいため「これには載っていないだろう」と後回しにしていた
鉄道ピクトリアル№829〔2010年1月臨増〕「【特集】小田急電鉄」号
の中に、デハ106ドンピシャで非常に鮮明な写真が掲載されていたのである。
それが
白土貞夫「絵葉書が描く 昔日の小田急電鉄 箱根登山鉄道」(pp.81-85)
のp.82中段の
「小田原急行鐡道 鶴巻驛」
とのタイトルの、小田急が開通当時制作・配布したとみられる絵葉書
で、
- 開け放されたドアや窓から制服姿の多数の人物が顔を出していること
- 2両編成中、手前の1両目が紛れもなく甲号車であるデハ106なのに対し、2両目は、新宿と稲田登戸間の近距離輸送用の乙号車つまりデハ1シリーズであること
- 手前側のプラットホームの盛土も構内横断場も工事が未了であること
- 駅舎のモルタル壁が未完成(まだ仕上の上塗り前に見える)にみえること
■写真からみると…
- 開通当初、鶴巻(現・鶴巻温泉)駅の駅舎は線路の南側にあったとされているうえ
- それを措いても、写真の上方やや左に、丹沢大山の特徴のある山影が写り込んでいる
結局、少なくとも、代田連絡線を経由して、最初に帝都線に回送された、小田急線用のデハ1206形は、パンタグラフ、楕円窓ともに新宿寄りに設けられていた*ことが判明したのである。
*生方良雄「私鉄電車めぐり(37)小田急電鉄」(鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1「小田急電鉄1950-60」pp.42-71)のp.51「図-5」でも、モハ101形のトイレ/手荷物室は新宿寄りに配置されている。
■尤も…
大幡哲海「小田急電鉄の車両」JTBキャンブックス鉄道42
のp.83掲載の、故萩原次郎氏が昭和13年3月に世田谷中原(現・世田谷代田)駅で撮影したデハ108形の写真では、パンタグラフは
*線路越しの写真で奥側の線路に停車中の電車に付いている方向板を、改めてスキャナで拡大してみると「新宿」とあった。
このデハ101シリーズは、12両全車が日本車両製のようなので、製造会社の違いによるものとも思えない
■追補
生方・前掲p.52によれば「パンタグラフ台は前後2箇カ所にあったが,パンタは1カ所で101~107…は新宿寄りに,108~112…は小田原寄りに付いていた.」とのことである。
たしかに、同p.42の写真「東北沢駅のモハニ101形107…」によれば、楕円窓はパンタグラフと同一方向(背景の一面の畑からみて新宿方向と思われる*)にある。
*【参考】
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 口絵写真 画面左手奥が、昭和2年当時の東北沢停車塲 キャプションにある「下山谷475」は、小田急線の南に位置していた |
なお、同p.52によれば、楕円窓のガラスは「ダイヤガラス」だったことに加え、同ページに以下のような記述もあった。
「1936(昭和11)年頃から半室運転室に改造を始めた.最初は長手方向がやや窮屈だったが,後方の窓を500㎜に縮め広げた.次いで1941(昭和16) 年頃からクロスシートのロングシート化,荷物室撤去を,1946(昭和21)年頃から便所の撤去を行った.」
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