2021年3月28日日曜日

櫻井教授のだいだらぼっち

■令和3年3月28日

驟雨の中、世田谷代田駅前広場の開場式が開かれました。

テープカット

  

 この広場には、ヒトの右足の巨大な跡が、道路舗装用のインター・ロッキング・ブロックという部材で、モザイク状に描かれています。











 



世田谷区制作のジオラマから
DaidaraNotesAndQueries: 「しもきた線路街」のジオラマ


【参照】

setagaya_news_no18.pdf

https://daita-machidukuri.jimdofree.com/


■この足跡は…

世田谷代田に、かつての代田村時代から伝わる「ダイダラボッチ」という巨人の伝説に基づくもので、


 今日配られた、世田谷区北沢総合支所街づくり課が令和3年3月に発行した「世田谷代田 駅周辺まちづくりニュース No.18」の裏面の「代田のダイダラボッチ!」と題したページに「代田村に巨人がのっしのっし」とのタイトルで、同地に伝わるダイダラボッチにまつわる民話が掲載されています。

■この民話は…

駒澤大学の故・櫻井正信名誉教授*が、世田谷区内の民話を精力的に収集し、同区の「区議会だより」に連載された成果をまとめた

クロスメディア・編「改訂・世田谷の民話」世田谷区区長室広報課/1995・刊

中の1篇です(巻末の「編集後記」に、同名誉教授への謝辞があります)。

*櫻井名誉教授は、かつてテレビ東京で放映していた、世田谷区の広報番組

 「風は世田谷」中、下記の2篇に登場している。

 第80回「せたがや昔ばなし」(昭和62年4月11日放送分)
  10分08秒~

 第341回「世田谷の民話 豪徳寺の招き猫代田の娘豊作を占う」(平成4年5月7日放送分)   

 https://www.youtube.com/watch?v=1ZIge04-ojc&t=14s

 01分13秒~

 なお、同名誉教授による世田谷に関係の深い論文としては
 桜井正信「玉川周辺の歴史地理学的研究 ‐とくに地域開発の構造分析とその方法‐」駒澤地理3〔1965〕pp.18-
 が、挙げられる。

■この…

「代田村に巨人がのっしのっし」と題する1篇(同書 pp.28-29)は、

世田谷区生活丈化部文化課・編「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊

のpp.69-70にも掲載されていますが、そのあらすじは以下のようなものです。

代田村では、数年にわたる旱魃と厳冬で土が冷え込んでしまい、神仏に頼るしかなすすべがなかった

そんなある日、吹き続けていた冷たい北風が吹き止んで、温かい日差しに転じた

空を見渡すと、男体山と浅間山の間に渡された竿にかかる着物が北風を防いでいることに気付いた

その夜、代田村に大男が大きな足音を立てて現れ、夜通し田畑を開墾し、翌朝には、それまで畑だった高台が、湧き水のある水田に変わっていた。

次の日に村人がみると、その大男は、筑波山に腰かけて、浅間山でキセルのタバコに火を点け

代田村に向かって、にっこりとほほ笑んだ。

■しかし…

この民話は、数多くの巨人伝説の中で、かなり特異なタイプに属します。

 と、いうのも、日本には、ダイダラボッチに限らず、巨人あるいは異様な力持ちにかかわる伝説は数多くあるのですが、巨人が人目に姿をさらしたという逸話はこれまで見たことがなく、一夜にして、山を動かしたとか代田の例のように田畑を拓いたという話でも、大きな振動や音を立てることはあっても「人に姿を見せない」のが通例といってよいのです。

 まして、上記の末尾のように、ヒトとコミュニケーションした話というのは、巨人伝説の一般的な傾向からは、かけ離れているように思えます。

 たとえば、
  DaidaraNotesAndQueries: だいだらぼっち基礎情報 

に引用した、柳田國男「だいだら坊の足跡」には、古今東西のだいだらぼっち伝説が数多く取り上げられていますが、明らかにヒトとコミュニケーションをしたというのは、巨大な脛を黙って天井から下してヒトに洗わせるという伝説がある程度で、「顔を見合わせた」という話ではありません。

■実は…

この民話には、もう一つおかしなところがあります。

 まず、巨人の行動を、3つのエピソードに分けて考えてみます。

エピソード1

 男体山と浅間山に竿をかけて洗濯物を干す

エピソード2

 夜どおし、田畑を開墾する

エピソード3

 筑波山に腰をかけて、浅間山でタバコの火を点ける

■この3つの…

内容を見てみると、それぞれが「単体」でも「巨人のお話」として成り立ち得ることがわかります。

 ときに、エピソード2は、数多くある「巨人による土木作業の伝説」、大掛かりなものとしては琵琶湖の土を掘って富士山を作るというものがありますが、ほかにも山を動かしたり、田畑を拓いたりする話は枚挙にいとまないので、やや典型から離れるとしても、「その姿を人が垣間見た」かどうかの違いに過ぎないとも言えます(巨人側が意図的・積極的に姿を晒しているわけではない)。

 しかも、代田に、巨人の足跡との伝承のある窪地が存在していたことは、別ブログですが、

 武蔵野會のダイダラボッチと柳田國男のダイダラボッチ

からも疑う余地がないのですから、エピソード2が、もともと、代田で伝承されていても不自然はありません。

■しかし…

エピソード1と3には、もとから代田に伝承されていたと考えるのには、いわば致命的な問題があります。

 なぜなら、 代田から浅間山は見えない* と思われるからです。

*江戸時代の著名な紀行文の一つ、村尾嘉陵「江戸近郊みちしるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕によれば、江戸直近で浅間山を見ることのできるのは、今の埼玉県蕨市のあたりが南端と思われる。

幕府によって公式に江戸の範囲と定められていた代々木村にほど近い代田から浅間山が見えるのであれば、その著者である、徳川御三卿中の一家である清水家の用人(実質的には幕臣と思われる)であるため、日帰りの旅しかできなかった嘉陵が、わざわざ、寅の一點刻(今でいう午前4時)に江戸府内の役宅を出て、9時間かけて「浅間山見たさに」桶川まで足を延ばす必要があったとも思えません。

下図のように、蕨でも浅間山が見えることを知ったのは、その帰途とのことです。 


蕨附近から見た浅間山(中央やや左)〔江戸近郊道しるべ26巻〕
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/23
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/24







 なお、埼玉県の上尾あたりでは、浅間山、男体山、筑波山が現在でも一望できるとのこと

 代田でも、たとえば筑波山なら距離も近く日常的に目にしていた可能性もあるのですが、距離が約125キロメートルと富士山より35キロメートルほど遠く、標高も1000メートル以上低い浅間山を題材に、このような伝承が自然発生することは考えにくく、どうやら、エピソード1と3は、どこか他所から代田に伝播してきた話で、それに、もともとから代田にあったエピソード2とが、いわば「巨人伝説」同士であるためにいつしか結合して、櫻井名誉教授の採集した民話の形になった、と考えるのが素直なのではないでしょうか。

とはいっても、これを確認するためには1と3の「類例」を探し出す必要があるのですが、先に書いたとおり、未だ見つかっていません。

2021年3月12日金曜日

代田の冨士講

 ■信仰を…

ベースにして作られたグループである、講中には、大別して、通常、ムラそれもその中の小名(小字)程度の範囲で構成され、原則全員(全戸)参加といってもよいタイプと、それより、やや、というか、ムラを超えた範囲での個人(というより各イエ)参加によるタイプによるものとがありました。

■近世の…

代田村のことを調べてみても、前者の全戸タイプのものとして、秩父三峯神社を崇拝する三峯講が代田本村を中心として結講されていた一方、青梅の武蔵御嶽神社を崇拝する御嶽講〔みたけこう〕が中原を中心として結構されていたことがわかりました。

それに対し、後者の個人参加型の講中として、旧代田村の領域の中には今のところ直接的な手掛かりは見つけられていないのですが、実は、今のところ判明している範囲では、旧・荏原郡内では、、旧下北澤村には、同村、代田村に加え、北隣の旧・豊島郡内の(現・中野区内の)雑色村や幡ヶ谷村といった広域からの講員によって構成された、富士山への信仰で結集された「山富丸平講」という、旧・下北澤村の鈴木家がリーダー(先達〔せんだつ〕)を務めていたと思われる、江戸時代の後半から江戸府中や周辺部をほぼ席巻していた富士講の講中の一つがありました。

(旧若林村にも、同じ、上位組織である「親講」の傘下だったためかと思われる同名の「山冨丸平講」があったようです。)

■ここまでは…

現・北沢1丁目のほぼ真ん中に、この講中の存在を示す大きな石碑があるのでわかってはいたのですが、それ以上に、この講中の活動を示す史料が長くみつかりませんでした。

■最近1年…

ほどですが、この「山富丸平講」の活動にかかわる記録が、鈴木先達のいた旧・下北澤村、あるいは荏原郡ではなく、北隣の豊島郡(明治以降は豊多摩郡)の旧・幡ヶ谷村(と、渋谷村)にあったことがわかりましたので、それらの史料を

北沢1丁目の「富士講碑」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)

にまとめてみましたので、ご笑覧ください。


2021年3月2日火曜日

代田村(と、下北澤村)の明治21年の村勢

 ■以前…

東京都公文書館でコピーをとってきていた、明治21年の

・原本請求番号(綴込番号等)604.B4.11(*049)

 電磁的記録媒体番号 D385-RAM

荏原郡代田村の現住戸数・現住人員・民有地・地租を納むる人員金額・所得税を納むる人員金額・国税地方税を納むる人員金額・町村費を納むる人員金額・建物坪数及個数・共有地

 ・原本請求番号(綴込番号等)604.B4.11(*050)

 電磁的記録媒体番号 D385-RAM

荏原郡下北沢村の現住戸数・現住人員・民有地・地租を納むる人員金額・所得税を納むる人員金額・国税地方税を納むる人員金額・町村費を納むる人員金額・建物坪数及個数・共有

が出てきたので、主要な項目を対比してみた。

■明治21年は…

近代であるが、明治維新後、この地は

・農業一般の全国的な傾向としてだが、化学肥料が使われ始めた
・代田村本村の齋田家、下北澤村の阿川家による茶の栽培がほぼピークを迎えていた

という程度の変化はあったが、江戸朱引外の近郊農村としての性格に大きな変化はないと考えられるので、近世末期の当地を知るためにも有用な資料と思われる。

分間第五区図〔抜粋〕
右寄りの薄紫色が下北澤村、左よりの青灰色が代田村


■M21代田村々勢

現住戸数 106戸
 内 本籍 105戸
   寄留  1戸

現住人員 640人
 内 本籍 610人
   寄留 30人

田 12丁8反2畝10歩
 地価 5966円35銭
 現時売買実価 8335円25銭1厘

畑 97丁2反3畝5歩
 地価 12173円47銭1厘
 現時売買実価 38892円68銭

山林 47丁8反7畝4歩
 地価 2424円75銭6厘
 現時売買実価 1436円16銭

用水費其他ノ協議費

 協議費   14円45銭8厘 但シ用悪水費

物産ノ算出高

 米 189石6升
  価額 907円48銭8厘

 陸米 48石
  価額 201円60銭

 大麦 490石
  価額 882円

 小麦 108石4斗
  価額 455円28銭 ?

 裸麦 100石4斗
  価額 281円12銭

 黍 34石6斗5升
  価額 69円30銭

 稗 81石
  価額 101円25銭

 栗 36石

  価額 68円40銭

徴発物件調

 荷車 74両

 人力車 2両

 水車 3ヶ所

 馬 1頭

■M21下北澤村々勢

現住戸数 99戸
 内 本籍 96戸
   寄留 3戸

現住人員 584人
 内 本籍 547人
   寄留 37人

田 11町1反8畝16歩
 地価 4516円43銭6厘
 現時売買実価 7470円25銭1厘

畑 83丁8反7畝20歩
 地価 10273円48銭8厘
 現時売買実価 33551円20銭?

山林 31丁7反2畝5歩
 地価 795円15銭8厘
 現時売買実価 9516円50銭

用水費其他ノ協議費
 協議費 4円84銭1厘 但シ用悪水費

物産ノ算出高

 米 167石7斗
  価額 849円60銭

 陸米 52石4斗8升
  価額 120円41銭6厘

 大麦 469石
  価額 844円20銭

 小麦 111石2斗
  価額 467円4銭

 裸麦 116石6斗
  価額 226円76銭

 黍 29石8斗8升
  価額 59円76銭

 稗 69石4斗
  価額 85円50銭

 栗 29石2斗
  価額 55円48銭

徴発物件調

 荷車 72両

 人力車 0両

 水車 0ヶ所

 馬 0頭

■できれば…

 近世期からすでに農家の現金収入源となっていた商品作物である、タケノコや、ダイコンなどの根菜類、ネギなどの蔬菜類の産額もデータとして残しておいて欲しかったところではあるが、ここに掲示されれているデータを見る限り、両村の間に、人口も含めて大きな差異がなかったことがわかる。

 

2020年12月15日火曜日

代田と下北澤村の近世史のために【随時加筆予定】

 ■最近…

世田谷代田の足跡や連絡線線路跡が一段落した趣があるので、代田村ひいては隣村の下北澤村の近世史に傾倒しはじめた。

 代田の近世史といっても、それらしい情報としては、世田谷吉良氏の没落後に代田に帰農した旧家臣といわれる「代田七人衆」が採り上げられている程度。下北澤村についても同様に帰農した膳場家など4家の名があがる程度。

ただし、下北澤村については、阿川家は元々は毛利に破れた長州の出で徳川の指示で入植したという説もあるし(世田谷区教育委員会民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」同委員会/S53 p.21)、それ以前から定住していた、いわゆる「地付き」として岸田、安野、飯田家の名前があがっている(前掲「下北沢」p.22)のに対し、代田村については、当然七人衆の前から同地にいたはずの「地付き」あるいは「草分け」の名前も不分明。

 あとは、幕末の、駒場一揆あるいは駒場野騒擾といわれる駒場狩場周辺の大砲の訓練場への転用を巡る騒動程度(これも、当地の記録ではなく、井伊家の世田谷代官の大場家の文書に依拠するほかない)なので、近世史は「中抜け状態」。

■そのほかの…

両村に関係する古文書として、旧太子堂村森家文書のうち「御用留」(一~三)(世田谷区立郷土資料館・編「世田谷叢書」(8~10巻)世田谷区教育委員会/H26-28・刊)も貴重な史料といえる。

 この森家が名主を務めた太子堂村は、文政10(1827)年、関東取締出役(いわゆる「八州廻り」)隷下の統制・連絡網として領主と無関係に組織された、地域ごとの「寄場組合」の代表(小惣代)村だったと思われ、上級庁からの指令や通達その他外部からの連絡事項は、この太子堂村から順次関係村に回覧されている。
 その回覧先に、代田村や下北澤村が含まれていることも多く、これらはとりもなおさず、他愛もないものも含めて、各村をめぐる当時の事情を示すことになる。

■近世史の史料についての…

一般論については

近世の村方統治を知るのに有用な文献【その1】
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-7f27.html

近世の村方統治を知るのに有用な文献【その2】
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-d5ab.html

石塔から村の成立時期や発展・停滞・衰退経過を推定する
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-d8b9.html

世田谷区内の石塔その他石造物については

東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷区石造遺物調査報告書 1~4」同委員会・刊/1984~1985

が公刊されている。

もっとも、板碑はこの調査時までに失われたものも多いし、地蔵・庚申塔・如意輪観音などは当初の場所から寺院に移されたものが多いことに留意する必要がある。

をまずは参照されたい。


2020年11月28日土曜日

代田に関連する別ブログの記事など

■御嶽社@代田八幡神社・三峯神社@圓乗院関係 

「お狗さま」のお札

  後半に、代田や周辺地域の代参講の調査結果

【ちょっと域外】ご近所の「お狗さま」探訪

  末尾近くに、代田の御嶽社と三峯神社の写真と記事

■ダイダラボッチ関係



■用水関係

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展〔続報〕

■その他、代田史


  代田村にあった武家の「抱屋敷」

【関連動画】

世田谷区 代田餅搗き

2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社で行われた 世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能) 三土代會餅搗き

東京都民教会の椅子


2020年11月26日木曜日

MISION CUMPLIDA! 代田駅前広場

■昨2020年11月25日…

 代田駅前広場に設置予定の「ダイダラボッチの足跡」のモニュメント*の墨付け(位置決め作業)が終わりました。

*モニュメントといっても、後述の「代田連絡線」のそれと同じように、地表に敷き詰めるインター・ロッキング・ブロックの色の使い分けによって、起伏のない平らな面の上に足跡を表現するので、広場に凸凹は生じませんので、ご安心を。

■これまで…

すでに完成している後述の「代田連絡線」のモニュメントを含め、いろいろと、ご提案やお手伝いをさせていただいた一連の作業が一段落して(あとは、施工者さんに期待するほかないので)、写真のように「ホッ」としているところです。

で、スペイン語で”MISION CUMPLIDA”、英語に翻訳すると”Mission complete”なのでしたが「ホッ」としすぎて、スペルを1か所間違えた^^;。

正しいスペルはこちら
チリの鉱山落盤事故時の、救出作戦〔MISION〕
完了〔CUMPLIDA〕時の記念ビデオ画像

【追記】20201129
文字校正…試しにダメモトでやってみたら、できちゃいました


■こちらが…

代田連絡線跡のモニュメント

グレーのブロックでレールを、濃いレンガ色のブロックで枕木を表現している。
グレーのブロックの内法は、現物の軌間1067ミリの”近似解”の1100ミリ


■この日は…

雨模様だったので、それなりに、メリハリのついた色遣いに見えますが、晴日には乱反射で白っぽくなってしまいますので、「鉄道の線路を表現した」と言われてみないと、何の模様かわからないかもしれませんね。

このあたりの…

意図というか苦労話というか計算というかは、上記の足跡ができあがったときに、差支えのない範囲で、折々追記して行こうかと思います。

2020年11月1日日曜日

旧代田村の御嶽講

■旧荏原郡代田村には… 

他の村と同様に、共通の信仰によってつながった、講中(講社)が数多くあったようで

・世田谷区生活文化部文化課「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊

 旧代田村(本村と飛地下代田)に該る「代田・代沢」の章によれば

三峰講は、現在も講中が三十二名いて、円乗院脇に三峰神社を祀り、毎年五月ごろには代参者〔註「四名」p.174〕を送って信仰を続けているということです。*
 御嶽講(武州御嶽)は、中原地区で行われていましたが、現在は代田八幡神社境内に末社として祀り**、講中は解散しています。」(p.63)

とある。

*この代参は今も続いていて、年1回円乗院で報告会が行われている由。
**この御嶽の末社は本殿右奥の一段高い場所に祀られている(2020/11/12確認)



***
この御嶽講は戦前中原斎田家が講元(主宰者)を務め、戦後もしばらく続いていたが、記録は戦災などで失われたそうである。

■しかし

 この代田の三峯講は今でも存続しているのに対し、御嶽講の方が先に解散してしまったのがなぜなのか、その理由がわからなかった。

 単純に考えると、秩父の三峯社に比べれば、青梅の御嶽社ははるかに近いので、比較的容易に参詣できるのに、である。

 ところが、最近入手した

西海賢二「武州御嶽山信仰史の研究」名著出版/s58・刊

読んでいたら、その p.163に以下のような記述があった。

 小金井の例では、S54当時、貫井南など4町には御嶽講があったが、本町では消滅していた。

「消滅した理由として『御嶽山では近すぎるので旅行の楽しみがうすい』『日帰りでいつでもいけるからつまらない』ということをあげている。」

とのこと。

■この

「近すぎる」「日帰りでもいける」が、戦前あるいは戦後しばらくの間の代田にもあてはまるかどうか、検証してみた。

 「お山」つまり御嶽山の方から、公共交通機関の開通時期を順次調べてみると…

御岳山駅-滝本駅          御岳登山鉄道     昭和10年1月開通*

  *官報:1935年01月15日号「地方鐵道運輸開始御嶽登山鐡道株式會社(鐵道省)
   
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958887/6

青梅鉄道の子会社「奥多摩振興」(現・西東京バスの母体)が、すでにS07年時点で、御嶽駅と小河内を結ぶ乗合自動車を運行していたので、御嶽駅と滝本駅(約3.3キロ)の接続のための、現・御嶽駅-ケーブル下間のバスも、ケーブルの開通にあわせて運行開始された可能性が高い(下図参照・後記追記参照) 

東京乗合自動車株式會社遊覧課「東京から 日かへり 一、二泊 旅行鳥瞰図」アトラス社/S07・刊 抜粋 

【追記】2020/11/15

メルカリに出品されていた、青梅鉄道発行の観光用パンフレット掲載の時刻表によれば「御嶽登山鐵道は目下敷設準備中近々開通の筈」という段階で、すでに御嶽駅・御嶽下間の乗合自動車が運行(7分・15銭)されていたことが確認できた。

   


 

御嶽駅-二俣尾駅              青梅電気鉄道    昭和04年開通(大正12年電化)

二俣尾駅-日向和田駅        青梅鉄道          大正09年開通(明治41年改軌)

日向和田駅-青梅駅           青梅鉄道          明治31年開通

青梅駅-立川駅                 青梅鉄道          明治27年開通(軽便鉄道)

吉祥寺駅                         甲武鉄道           明治32年開業

立川駅-新宿駅                甲武鉄道           明治22年開通

と、明治中期には、すでに新宿から青梅まで列車でゆけるようになっていたことがわかる。

加えて、代田から、甲武鉄道(現・JR中央線)までのルートについてみると

新宿駅-代田橋駅            京王電気軌道      大正04年全通

新宿駅-世田谷中原駅      小田原急行電鉄   昭和02年開通

吉祥寺駅-代田二丁目駅   帝都電鉄            昭和09年全通

なので、昭和10年以降は、ほとんど歩かずに、御嶽のお山に着いてしまうことになる。

 現在のダイヤでは、8時に新代田を出ると10時36分にはケーブルカーの終点に着き、その後の山道と本殿までの石段を見越しても、午前中に参拝可能。

 当時、移動時間がその倍かかったとしても***、早朝に出かければ日帰り可能になってしまっていたのだろうから、さらに御嶽に近い小金井の人たちにとっては、かつての「旅」が「移動」になってしまったように感じられただろうことはよくわかる。

***もっとも、上記地図裏面の観光案内の記事中「奥多摩」によれば、S07当時、新宿-御嶽駅間は
  所要時間約1時間半、運賃92銭。当時新宿-立川間は列車だったためか、所要(実乗)時間は
  今と大差ない(なお、S07年には、列車のほかに立川までの電車が運転開始されている)。
  ちなみに、「三峰山」については
  上野-熊谷間 1時間10分/97銭、熊谷-三峯口間 2時間/1円35銭
  三峯口ー大和間のバスが30銭
  なので、鉄道だけをとっても「乗りで」があるし、同一ルートで現行実乗2時間30分余。 

■また、

・ケーブル開通と同時にハイカーが増えて、かつての深山幽谷の雰囲気が薄れた

 言い換えれば、かつての霊場が俗化してしまったという側面もありそうである。

 ただし、東京都が、従来は参詣する講員のための宿坊を運営していた御師に、一般宿泊業(民宿・旅館)化を奨めるなど、御嶽の観光地化が急速に進んだのは昭和25年ころからのようなのだが〔前掲・西海p.317〕、ケーブルカーの乗車人員をみると〔同p.316「表1」〕、その開通時の昭和10年には、すでに年間乗客数が16万人余と観光地化が進んでいたらしいことがわかる(大正末ころからの観光地化の概説は、前掲・西海pp.137-)。

 また、さらに遡れば
服部一作「武藏御嶽山案内」同/T05・刊
中「五 旅舘の設備」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932734/25
によれば

御嶽山には殆んど旅舘としての設備なし、只參詣者の爲に御師の家にて講中登山の際の参籠を爲さしむるに過ぎざりしが、近年避暑客其他の登山者頗ぷる多くなりたれば、其求めに應じて何れの家にても宿泊せしむる事になれるなり、然〔さ〕れば料金を定めづ客人の心に任せて報酬を爲さしむるの例なりしが、此は却て客人をして迷惑を感じせしむるものなりとて、近來は客人の望みにより料金を定めて宿泊せしむる事と改めたり、未だ料金は區々にして一定せすと雖も、普通一二泊の客は壹圓以内、滞在の避暑客には望みによりて其額を協定す、家屋の構造は総て廣きが故に一夜に數十名を宿泊せしむる事を得べし、寝具等も好みによりては紬、絹布等あり、飲食物は春時は講中の登山期なれば、海魚〔さかな〕も日々東京の魚河岸より汽車にて送り諸物と共に青梅より駄馬にて運び、毎日の往復絶ゆる事なければ、如何なる品にても得られざるなく夏期は新鮮らる山野野蔬の饗應に加ふるに、山麓を廻りて流る多摩川の鮎、又上流の名物鰥〔やまめ〕の如き鮮魚も食膳に上す事を得ぺし、料理の調味は東京風にて頗〔すこぶる〕るよし
生産品としては山葵〔わさび〕、蕨、岩茸、椎茸、粟、山葵漬、羊羹、木地細工等あり、殊に山葵の糟漬は當山の名物にて、土産物として登山者の購な〔あがな〕ひ行くもの頗ぶる多し

とあり、すでにこの時点で、御師たちも、本来は御嶽講の講中参詣者のための宿坊に、登山・観光客を宿泊させていた*ことがわかる(余談ながら、文中の夏場の「飲食物」は非常に魅力的)。

*奥付によれば著者の服部一作の住所は「西多摩郡三田村御嶽山一三〇番地」(現・青梅市見御嶽山130番地)なので、現在でも「宿坊服部山中荘/華の宿やまなか」を営む御師の家である。

(なお、ケーブル開通前の御嶽詣の模様は、
せたがやeカレッジ講座|「世田谷区域の講行事 」第3回
のヴィデオの13分9秒以降を参照)

■先の…

「ふるさと世田谷を語る…」の旧下北澤村に該る「北沢・代沢」の章に

北沢2丁目の田中次郎氏談として
〇講の話
 講と称するものもいくつかありましたが、印象に残っているものは毎年代参といって、毎年地域の代表が一名ないし二名登山に行っていた富士講(山梨県富士山)、御嶽講(奥多摩御嶽神社)、榛名講(群馬県榛名神社)等です。これらの講は地域の各家から「講金」と称する会費を出し合いまして、これを代表が使用して参詣に行ったようです。これは農作物の豊作を祈願する傍ら、農家の人々の「慰安」でもあったようです。(p.197。p.92も同旨 

とある。

 交通機関が発達する前のかつての御嶽参拝は、帰路に、富士講や大山講のような、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をした様子はないものの、青梅の町に立ち寄って、青梅縞という反物を土産に買い込むなど、相応の寄り道をしていたらしい〔前掲・西海pp.260-261〕*

*小倉美恵子「オオカミの護符」新潮社/2011・刊 のp.48によれば、大正期には、川崎土橋の御嶽講では、代参者は、参詣後足を延ばして(おそらく、さらに古くは御嶽から大菩薩峠を越えて)甲州石和温泉で「どんちゃん騒ぎ」してから土橋に戻ったらしい。
 いわば、これがかつての代参講の「標準形」なのだろう。

 これに対し、日帰りが一般的になった後は

「一〇時に登拝して御師宅で昼食(直会をかねて)をとり、二時か三時頃に下山するという講社のケースが一番多い」〔前掲・西海p.215

と、「遊山」はともかく「物見」のゆとりがない。

■今でも…

 遠くて公共交通の面でも不便な、三峯の講中が今でも残り、近くて便利な御嶽の講が消滅したのは、小金井本町と同じ、以上のような

「何の苦労もなく、行って帰れるようになり
 昔なら、青梅あたりで一泊するお金も講金から出たのに
 今はそれも無くなった」

といった理由だったのではなかろうか。

【追記】

 一般的に、御嶽講、三峯講といった「代参講」と呼ばれる項中は、通常は村全体というよりも、村内の「小字」と呼ばれる各集落単位の組織で、しかも、全員参加が標準だったようである。

 どうも、それは、もともとは信仰が機縁といっても、近世期でも、御嶽さんを崇敬しようが、三峯さんを崇敬しようが、その程度の信教の自由はあったわけなのだから、全員参加には別の理由があるらしい。

 どうやら、全員が「参加せざるを得ない」理由としては、代参よりもむしろ、講中で定期的に開かれる集会(「日待講」「月待講」などが指摘されるが、ほかにもまだあったかもしれない)への参加資格が重要だったのだと思われる。

 当時は、今の区議会はもちろん、明治初期の村会すらないわけなのだから、村内とか小字内の「申合せ」とか「情報交換」をする機会はその程度しかかっただろうから、「コミュニティ」の一員として、その運営に参画するには、そういった講中に加わるしたなかった(といっても、別に強制されたわけでもなく、ご先祖さんの時代からの「当たり前」のこととして)結果的に全員参加になったのではないかと思われる。