2020年11月1日日曜日

旧代田村の御嶽講

■旧荏原郡代田村には… 

他の村と同様に、共通の信仰によってつながった、講中(講社)が数多くあったようで

・世田谷区生活文化部文化課「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊

 旧代田村(本村と飛地下代田)に該る「代田・代沢」の章によれば

三峰講は、現在も講中が三十二名いて、円乗院脇に三峰神社を祀り、毎年五月ごろには代参者〔註「四名」p.174〕を送って信仰を続けているということです。*
 御嶽講(武州御嶽)は、中原地区で行われていましたが、現在は代田八幡神社境内に末社として祀り**、講中は解散しています。」(p.63)

とある。

*この代参は今も続いていて、年1回円乗院で報告会が行われている由。
**この御嶽の末社は本殿右奥の一段高い場所に祀られている(2020/11/12確認)



***
この御嶽講は戦前中原斎田家が講元(主宰者)を務め、戦後もしばらく続いていたが、記録は戦災などで失われたそうである。

■しかし

 この代田の三峯講は今でも存続しているのに対し、御嶽講の方が先に解散してしまったのがなぜなのか、その理由がわからなかった。

 単純に考えると、秩父の三峯社に比べれば、青梅の御嶽社ははるかに近いので、比較的容易に参詣できるのに、である。

 ところが、最近入手した

西海賢二「武州御嶽山信仰史の研究」名著出版/s58・刊

読んでいたら、その p.163に以下のような記述があった。

 小金井の例では、S54当時、貫井南など4町には御嶽講があったが、本町では消滅していた。

「消滅した理由として『御嶽山では近すぎるので旅行の楽しみがうすい』『日帰りでいつでもいけるからつまらない』ということをあげている。」

とのこと。

■この

「近すぎる」「日帰りでもいける」が、戦前あるいは戦後しばらくの間の代田にもあてはまるかどうか、検証してみた。

 「お山」つまり御嶽山の方から、公共交通機関の開通時期を順次調べてみると…

御岳山駅-滝本駅          御岳登山鉄道     昭和10年1月開通*

  *官報:1935年01月15日号「地方鐵道運輸開始御嶽登山鐡道株式會社(鐵道省)
   
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958887/6

青梅鉄道の子会社「奥多摩振興」(現・西東京バスの母体)が、すでにS07年時点で、御嶽駅と小河内を結ぶ乗合自動車を運行していたので、御嶽駅と滝本駅(約3.3キロ)の接続のための、現・御嶽駅-ケーブル下間のバスも、ケーブルの開通にあわせて運行開始された可能性が高い(下図参照・後記追記参照) 

東京乗合自動車株式會社遊覧課「東京から 日かへり 一、二泊 旅行鳥瞰図」アトラス社/S07・刊 抜粋 

【追記】2020/11/15

メルカリに出品されていた、青梅鉄道発行の観光用パンフレット掲載の時刻表によれば「御嶽登山鐵道は目下敷設準備中近々開通の筈」という段階で、すでに御嶽駅・御嶽下間の乗合自動車が運行(7分・15銭)されていたことが確認できた。

   


 

御嶽駅-二俣尾駅              青梅電気鉄道    昭和04年開通(大正12年電化)

二俣尾駅-日向和田駅        青梅鉄道          大正09年開通(明治41年改軌)

日向和田駅-青梅駅           青梅鉄道          明治31年開通

青梅駅-立川駅                 青梅鉄道          明治27年開通(軽便鉄道)

吉祥寺駅                         甲武鉄道           明治32年開業

立川駅-新宿駅                甲武鉄道           明治22年開通

と、明治中期には、すでに新宿から青梅まで列車でゆけるようになっていたことがわかる。

加えて、代田から、甲武鉄道(現・JR中央線)までのルートについてみると

新宿駅-代田橋駅            京王電気軌道      大正04年全通

新宿駅-世田谷中原駅      小田原急行電鉄   昭和02年開通

吉祥寺駅-代田二丁目駅   帝都電鉄            昭和09年全通

なので、昭和10年以降は、ほとんど歩かずに、御嶽のお山に着いてしまうことになる。

 現在のダイヤでは、8時に新代田を出ると10時36分にはケーブルカーの終点に着き、その後の山道と本殿までの石段を見越しても、午前中に参拝可能。

 当時、移動時間がその倍かかったとしても***、早朝に出かければ日帰り可能になってしまっていたのだろうから、さらに御嶽に近い小金井の人たちにとっては、かつての「旅」が「移動」になってしまったように感じられただろうことはよくわかる。

***もっとも、上記地図裏面の観光案内の記事中「奥多摩」によれば、S07当時、新宿-御嶽駅間は
  所要時間約1時間半、運賃92銭。当時新宿-立川間は列車だったためか、所要(実乗)時間は
  今と大差ない(なお、S07年には、列車のほかに立川までの電車が運転開始されている)。
  ちなみに、「三峰山」については
  上野-熊谷間 1時間10分/97銭、熊谷-三峯口間 2時間/1円35銭
  三峯口ー大和間のバスが30銭
  なので、鉄道だけをとっても「乗りで」があるし、同一ルートで現行実乗2時間30分余。 

■また、

・ケーブル開通と同時にハイカーが増えて、かつての深山幽谷の雰囲気が薄れた

 言い換えれば、かつての霊場が俗化してしまったという側面もありそうである。

 ただし、東京都が、従来は参詣する講員のための宿坊を運営していた御師に、一般宿泊業(民宿・旅館)化を奨めるなど、御嶽の観光地化が急速に進んだのは昭和25年ころからのようなのだが〔前掲・西海p.317〕、ケーブルカーの乗車人員をみると〔同p.316「表1」〕、その開通時の昭和10年には、すでに年間乗客数が16万人余と観光地化が進んでいたらしいことがわかる(大正末ころからの観光地化の概説は、前掲・西海pp.137-)。

 また、さらに遡れば
服部一作「武藏御嶽山案内」同/T05・刊
中「五 旅舘の設備」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932734/25
によれば

御嶽山には殆んど旅舘としての設備なし、只參詣者の爲に御師の家にて講中登山の際の参籠を爲さしむるに過ぎざりしが、近年避暑客其他の登山者頗ぷる多くなりたれば、其求めに應じて何れの家にても宿泊せしむる事になれるなり、然〔さ〕れば料金を定めづ客人の心に任せて報酬を爲さしむるの例なりしが、此は却て客人をして迷惑を感じせしむるものなりとて、近來は客人の望みにより料金を定めて宿泊せしむる事と改めたり、未だ料金は區々にして一定せすと雖も、普通一二泊の客は壹圓以内、滞在の避暑客には望みによりて其額を協定す、家屋の構造は総て廣きが故に一夜に數十名を宿泊せしむる事を得べし、寝具等も好みによりては紬、絹布等あり、飲食物は春時は講中の登山期なれば、海魚〔さかな〕も日々東京の魚河岸より汽車にて送り諸物と共に青梅より駄馬にて運び、毎日の往復絶ゆる事なければ、如何なる品にても得られざるなく夏期は新鮮らる山野野蔬の饗應に加ふるに、山麓を廻りて流る多摩川の鮎、又上流の名物鰥〔やまめ〕の如き鮮魚も食膳に上す事を得ぺし、料理の調味は東京風にて頗〔すこぶる〕るよし
生産品としては山葵〔わさび〕、蕨、岩茸、椎茸、粟、山葵漬、羊羹、木地細工等あり、殊に山葵の糟漬は當山の名物にて、土産物として登山者の購な〔あがな〕ひ行くもの頗ぶる多し

とあり、すでにこの時点で、御師たちも、本来は御嶽講の講中参詣者のための宿坊に、登山・観光客を宿泊させていた*ことがわかる(余談ながら、文中の夏場の「飲食物」は非常に魅力的)。

*奥付によれば著者の服部一作の住所は「西多摩郡三田村御嶽山一三〇番地」(現・青梅市見御嶽山130番地)なので、現在でも「宿坊服部山中荘/華の宿やまなか」を営む御師の家である。

(なお、ケーブル開通前の御嶽詣の模様は、
せたがやeカレッジ講座|「世田谷区域の講行事 」第3回
のヴィデオの13分9秒以降を参照)

■先の…

「ふるさと世田谷を語る…」の旧下北澤村に該る「北沢・代沢」の章に

北沢2丁目の田中次郎氏談として
〇講の話
 講と称するものもいくつかありましたが、印象に残っているものは毎年代参といって、毎年地域の代表が一名ないし二名登山に行っていた富士講(山梨県富士山)、御嶽講(奥多摩御嶽神社)、榛名講(群馬県榛名神社)等です。これらの講は地域の各家から「講金」と称する会費を出し合いまして、これを代表が使用して参詣に行ったようです。これは農作物の豊作を祈願する傍ら、農家の人々の「慰安」でもあったようです。(p.197。p.92も同旨 

とある。

 交通機関が発達する前のかつての御嶽参拝は、帰路に、富士講や大山講のような、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をした様子はないものの、青梅の町に立ち寄って、青梅縞という反物を土産に買い込むなど、相応の寄り道をしていたらしい〔前掲・西海pp.260-261〕*

*小倉美恵子「オオカミの護符」新潮社/2011・刊 のp.48によれば、大正期には、川崎土橋の御嶽講では、代参者は、参詣後足を延ばして(おそらく、さらに古くは御嶽から大菩薩峠を越えて)甲州石和温泉で「どんちゃん騒ぎ」してから土橋に戻ったらしい。
 いわば、これがかつての代参講の「標準形」なのだろう。

 これに対し、日帰りが一般的になった後は

「一〇時に登拝して御師宅で昼食(直会をかねて)をとり、二時か三時頃に下山するという講社のケースが一番多い」〔前掲・西海p.215

と、「遊山」はともかく「物見」のゆとりがない。

■今でも…

 遠くて公共交通の面でも不便な、三峯の講中が今でも残り、近くて便利な御嶽の講が消滅したのは、小金井本町と同じ、以上のような

「何の苦労もなく、行って帰れるようになり
 昔なら、青梅あたりで一泊するお金も講金から出たのに
 今はそれも無くなった」

といった理由だったのではなかろうか。

【追記】

 一般的に、御嶽講、三峯講といった「代参講」と呼ばれる項中は、通常は村全体というよりも、村内の「小字」と呼ばれる各集落単位の組織で、しかも、全員参加が標準だったようである。

 どうも、それは、もともとは信仰が機縁といっても、近世期でも、御嶽さんを崇敬しようが、三峯さんを崇敬しようが、その程度の信教の自由はあったわけなのだから、全員参加には別の理由があるらしい。

 どうやら、全員が「参加せざるを得ない」理由としては、代参よりもむしろ、講中で定期的に開かれる集会(「日待講」「月待講」などが指摘されるが、ほかにもまだあったかもしれない)への参加資格が重要だったのだと思われる。

 当時は、今の区議会はもちろん、明治初期の村会すらないわけなのだから、村内とか小字内の「申合せ」とか「情報交換」をする機会はその程度しかかっただろうから、「コミュニティ」の一員として、その運営に参画するには、そういった講中に加わるしたなかった(といっても、別に強制されたわけでもなく、ご先祖さんの時代からの「当たり前」のこととして)結果的に全員参加になったのではないかと思われる。


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