2018年10月8日月曜日

だいだらぼっち基礎情報

■駒沢近辺の「村社」

東京都公文書館
 
【公開件名】村社 氷川神社荏原郡碑衾村⼤字衾 社掌新倉〓太郎 【収録先の名称】各神社収⼊⽀出明細表⽬録 〈第五課社寺掛〉⾃明治26年⾄明治27年 【収録先の請求番号】620.A6.13 【綴込番号】*062 【資料種別】公⽂書_件名_府市 【作成主務課1】第五課社寺掛 【⽂書年度(和暦)】明治26年〜明治27年 【⽂書年度(⻄暦)】1893年〜1894年 【起案年⽉⽇(和暦)】明治999999⽇ 【起案年⽉⽇(⻄暦)】99999999⽇ 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID000120349 【公開区分】公開

【公開件名】村社 武蔵国荏原郡(荏原郡)碑⽂⾕村 ⼋幡神社 摂社 厳島神社 厳島神社 ⾼⽊神社 【補助件名】村社明細 【収録先の名称】村社明細簿 明治10年2⽉調〈社寺掛・社寺科〉 【収録先の請求番号】
633.C2.09 【綴込番号】
*068 【資料種別】公⽂書_件名_府市 【作成主務課1】社寺掛 【⽂書年度(和暦)】明治10年〜明治10年 【⽂書年度(⻄暦)】1877年〜1877年 【起案年⽉⽇(和暦)】明治100299⽇ 【起案年⽉⽇(⻄暦)】18770299⽇ 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID000118132【公開区分】公開

【公開件名】兼勤社 武蔵国荏原郡(荏原郡)野沢村・中⾺引沢 稲荷神社 【補助件名】村社明細 【収録先の名称】村社明細簿 明治10年2⽉調〈社寺掛・社寺科〉 【収録先の請求番号】633.C2.09 【綴込番
号】
*091 【資料種別】公⽂書_件名_府市 【作成主務課1】社寺掛 【⽂書年度(和暦)】明治10年〜明治10年【⽂書年度(⻄暦)】1877年〜1877年 【起案年⽉⽇(和暦)】明治100299⽇ 【起案年⽉⽇(⻄暦)】18770299⽇ 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID000118132 【公開区分】公開

【公開件名】村社 武蔵国荏原郡(荏原郡)衾村 氷川神社 摂社 熊野神社 【補助件名】村社明細 【収録先の名称】村社明細簿 明治10年2⽉調〈社寺掛・社寺科〉 【収録先の請求番号】633.C2.09 【綴込
番号】
*093 【資料種別】公⽂書_件名_府市 【作成主務課1】社寺掛 【⽂書年度(和暦)】明治10年〜明治10年 【⽂書年度(⻄暦)】1877年〜1877年 【起案年⽉⽇(和暦)】明治100299⽇ 【起案年⽉⽇(⻄暦)】18770299⽇ 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID000118132 【公開区分】公開

【公開件名】〔事⽐羅組合(事⽐羅神社組合)〕 武蔵国荏原郡(荏原郡) 衾村 村社 氷川神社 【補助件名】組合明細 【収録先の名称】事⽐羅組合明細帳・甲 〈社寺掛〉明治13年 【収録先の請求番号】633.C2.11 【綴込番号】*045 【資料種別】公⽂書_件名_府市 【作成主務課1】社寺掛 【⽂書年度(和暦)】明治13年〜明治13年 【⽂書年度(⻄暦)】1880年〜1880年 【起案年⽉⽇(和暦)】明治120899⽇【起案年⽉⽇(⻄暦)】18790899⽇ 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID000118134 【公開区分】公開

■「東京の川」だいだらぼっち川
https://tokyoriver.exblog.jp/13201884/

■出穂山トライアングル+だいだらぼっち
 https://drive.google.com/open?id=1u_bbDtS_N8I7ljht-8z6BmlyJo8&usp=sharing

調査サブノート:ダイダラボッチ考
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/DaidaraBotti.htm
 

■柳田國男「だいだら坊の足跡」

巨人来往の衝

 東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたのである。しこうして何人が記憶していたのかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。
 二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいい伝う云々とある*。すなわち現在の京王電車線、代田橋の停留所とまさに一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだか、巨人の偉績としてははなはだ振わぬものである。しかし村の名の代田は偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。
 私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人を罷めて気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先上がりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れるとみえて中央が薬研になっており、腫の処まで下るとわずかな平地に、小さな堂が建ってその傍に涌き水の池があった。すなわちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。
 あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。それを読んでいた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向って巡礼を続けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中ほどにあった。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらいの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし腫のあたりに清水が出ており、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなお七八町も隔てた雑木林のあいだであった。附近にいわゆる文化住宅が建とうとして、盛んに土工をしていたから、あるいはすでに湮滅したかも知れぬ。これは周囲の林地よりわずか低い沼地であって、自分が見た時にもはや足跡に似た点はちっともなく、住民は新地主で、尋ねても言い伝えを知らなかった。そうして物ずきないわゆる史蹟保存も、さすがに手をつけてはいなかったようである。
 代田と駒沢とは足の向いた方が一致せず、おまけにみな東京を後にしているが、これによって巨人の通った路筋を考えてみることはできぬ。地下水の露頭のために土を流した場処が、通例こういう足形窪を作るものならば、武蔵野は水源が西北にあるゆえに、ダイダラ坊はいつでも海の方または大川の方から、奥地に向いて闊歩したことになるわけである。江戸には諸国よりいろいろの人が来て住んで、近世始めて開けた原野が多かろうと思うのに、いつの間に処々の郊外に、こうして大昔の物語を伝えたものか。自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまわずに、今すこししんみりと考えてみたいと思っている。
 ただ不幸なことには多くの農民の伝説が、江戸の筆豆にも採録せられぬうちに消えてしまった。百年余り前のことである。小石川小日向台の本法寺という門徒寺の隠居に、十方庵敬順という煎茶のすきな老僧があった。たたみ焜炉という物を茶道具と一緒に携帯して、日返りに田舎へ出かけて、方々の林の陰に行って茶を飲み、野らに働く人たちを捉えて話を聴いた。『遊歴雑記』と題するこの坊さんの見聞録が、「江戸叢書」の一部として出版せられている。それを捜してみるとほんの一つだけ、王子の豊島の渡しの少し手前の畑の中に、ダイダボッチの塚というものがあったことを誌してある。ここでも土地の字は代田といい、巨人がこの辺を歩いた時、その草鮭にくっついていた砂が落ちこぼれて、この塚になったと村の人たちが彼に話したとある。その塚は今どこにあり、その口碑を談った農夫の家は、どうなってしまったかも尋ねようはないが、とにかくに生真面目にこんな昔話を聴いたり語ったりした者が、つい近年まではこの地にさえいたのである。

デエラ坊の山作り

 『松屋筆記』にはまたこんな話を書いている。著者は前の煎茶僧とほぼ同じ時代の人である。日く、武相の国人常にダイラボッチとて、形大なる鬼神がいたことを話する。相模野の中にある大沼という沼は、大昔ダイラボッチが富士の山を背負って行こうとして、足を踏張った時の足跡の窪みである。またこの原に藤というものの少しもないのは、彼が背負縄にするつもりで藤蔓を捜し求めても得られなかった因縁をもって、今でも成長せぬのだと伝えている云々。自分は以前何回もあの地方に散歩してこの事を思い出し、果して村の人たちが今ではもう忘れているか否かを、確かめてみたい希望を持っていたが、それを同情して八王子の中村成文君が、特に我々のために調べてくれられた結果を見ると、なかなかどうして忘れてしまうどころではなかった。
 右の大沼とは同じでないかも知れぬが、今の横浜線の淵野辺停車場から見える処に、一つの窪地があって水ある時にはこれを鹿沼といっている。それから東へ寄ってこれも鉄道のすぐ傍に菖蒲沼があり、二つの沼の距離は約四町である。デエラボッチは富士山を背負おうとして、藤蔓を求めて相模野の原じゅうを捜したが、どうしてもないので残念でたまらず、じんだら(地団太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だという。またこの原の中ほどには幅一町ばかり、南北に長く通った窪地がある。デエラボッチが憤鼻揮を引きずってあるいた跡と称し、現にその地名をふんどし窪ととなえている。境川を北に渡って武蔵の南多摩郡にも、これと相呼応する伝説はいくらもある。たとえば由井村の小比企という部落から、大字宇津貫へ越える坂路に、池の窪と呼ばるる凹地がある。長さは十五六間に幅十間ほど、梅雨の時だけは水が溜って池になる。これもデエラボッチが富士の山を背負わんとして、一跨ぎに踏張った片足の痕で、今一方は駿河の国にあるそうだ。なるほど足跡だといえばそうも見えぬことはない。また同郡川口村の山人という部落では、縄切と書いてナギレと訓む字に、附近の山から独立した小山が一つある。これはデエラボッチが背に負うてやって来たところ、縄が切れてここへ落ちた。その縄を繋ぐためにふじ蔓を探したが見えぬので、大いにくやしがって今からこの山にふじは生えるなといったそうで、今日でも山はこの地に残り、ふじは成長せぬと伝えている。ただしそのふじというのは葛のことであった。巨人なればこそそのような弱い物で、山でも担いで持ち運ぶことができたのである。
 甲州の方ではレイラボッチなる大力の坊主、麻殻の棒で二つの山を担い、遠くへ運ぼうとしてその棒が折れたという話が、『日本伝説集』にも『甲斐の落葉』にも見えている。東山梨郡加納岩村の石森組には、そのために決して麻は栽えかった。栽えると必ず何か悪い事があった。その時落ちたという二つの山が、一つは塩山であり他の一つは石森の山であった。ある知人の話では、藁の茎で二つの土塊を荷なって行くうちに、一つは抜け落ちて塩山ができたといい、その男の名をデイラボウと伝えていた。デイラボウはそのまま信州の方へ行ってしまったということで、諸処に足跡がありまた幾つかの腰掛石もあった。
 我々の祖先はいつの世からともなく、孤山の峰の秀麗なるものを拝んでいた。飯盛山というのが、その最も普遍した名称であった。御山・御岳として特に礼拝する山だけは、この通り起源が尋常でないもののごとく、説明せられていたように思われる。後にはもちろんこれを信ずるあたわざる者が、いわゆる大話の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きを置いたのは麻殻・葛の蔓の点ではなかったろうかと思う。むつかしくいうたらばこの種巨人譚の比較から、どのくらいまで精密に根源の信仰がたどって行かれるか。それを究めてみたいのがこの篇の目的である。必ずしも見かけほど呑気な問題ではないのである。

関東のダイダ坊

 自分たちはまず第一に、伝説の旧話を保存する力というものを考える。足跡がある以上は本当の話だろうということは、論理の誤りでもあろうし、また最初からの観察法ではなかったろうが、とにかくにこんなおかしな名称と足跡とがなかったならば、いかに誠実に古人の信じていた物語でも、そう永くは我々のあいだに、留まっていなかったはずである。東京より東の低地の国々においては、山作りの話はようやく稀にして、足跡の数はいよいよ多い。すなわち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の伝説の巨人を引き連れて、新たにこの方面に移住した結果とも、想像せられぬことはないのである。けだし形状の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味もなくダイラボッチと名づけたような場合も、ある時代には相応に多かったと見なければ、説明のつかぬほどの分布があることは事実だが、大本に遡って、もしも巨人は足痕を遺すものなりという教育がなかったら、とうていこれまでの一致を期することはできぬかと思う。
 上総・下総は地名なり噂話なりで、ダイダの足跡のことに遍ねき地方と想像しているが、自分が行って見だのは一箇処二足分に過ぎなかった。旅はよくしてもなかなかそんな処へは出くわせるものでない。上総では茂原から南へ丘陵を一つ隔てて、鶴枝川が西東に流れている。その右岸の立木という部落を少し登った傾斜面の上の方に、いたって謙遜なるダイダッポの足跡が一つ残っていた。足袋底の型程度の類似はもっているが、この辺が土ふまずだと言われてみても、なるほどとまでは答えにくい足跡であった。面積はわずかに一畝と何歩、周囲は雑木の生えた原野なるに反して、この部分のみは麦畠になっていた。爪先はここでも高みの方を向いている。土地の発音ではライラッポとも聞える。川の両岸の岡から岡ヘ一跨ぎにしたと言うのであるが、向いの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することができなくなっている。ただその少しの地面のみが別の地主に属し、左右の隣地を他の一人で持っている事実が、多分以前は除地であったろうことを、想像せしめるというだけである。
 『埴生郡聞見漫録』を見ると、この地方の海岸人がダンダアというのは、坊主鮫とも称する一種の怪魚であった。それが出現すると必ず天気が変ると伝えられた。あるいは関係はないのかも知れぬが、事によるとダイダ坊も海から来ると想像ししたのではあるまいか。常陸の方では、『風俗画報』に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔千波沼辺に住める巨人なりという。土人いう、この人大昔千波沼より東前池まで、一里余の間を一またぎにし、その足跡が池となったと言い伝うる仮想の者だとある。その足跡の話は吉田氏の『地名辞書』にも見え、あるいは椎塚村のダッタイ坊などのごとく、そちこち徘徊した形跡はもちろんあるが、それを『古風土記』の大櫛岡の物語が、そのまま残っていたものと解するごとは、常陸の学者には都合がよろしくとも、他の方面の伝説の始末がつかなくなる。自分はそういう風に地方地方で、独立して千年以上を持ち伝えたようには考えていないのである。
 下野ではまた鬼怒川の岸に立つ羽黒山が、昔デソデソボメという巨人の落して往った山ということになっている。この山にかぎって今なお一筋の藤蔓もないのは、山を背負って来た時に藤の縄が切れたためだというのは、少々ばかり推論の綱が切れている。あるいはこの山に腰を掛けて、鬼怒川で足を洗ったといい、近くにその時の足跡と伝うる二反歩ばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼と呼ばれている。足のすぐれて大きな人を、今でもデソデソボメのようだといって笑うというのも(日本伝説集)、信州などの例と一致している。
 枝葉にわたるが足を洗うという昔話にも、何か信仰上の原因があったのではないかと思う。私の生まれた播州の田舎でも、川の対岸の山崎という処に、淵に臨んだ岩山があって、夜分その下を通った者の怖ろしい経験談が多く流布していた。路をまたいで偉大なる毛脛が、山の上から川の中へぬっと突っ込まれたのを見たなどといって、その土地の名を千束と称するが、センゾクは多分洗足であろうと思っている。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗いという怪物を説くことは人がよく知っている。深夜に天井から足だけが一本ずつ下がる。これを主人が裃で盥を採って出て、うやうやしく洗い奉るのだというなどは、空想としても必ず基礎がある。洗わなければならなかった足は、遠い路を歩んで来た者の足であった。すなわち山を作った旅の大神と、関係がなかったとはいわれぬのである。

百合若と八束脛

 上野国では三座の霊山が、初期の開拓者を威圧した力は、かえって富士以上のものがあったかと想像せられる。すなわちその峰ごとに最も素朴なる巨人譚を、語り伝えたゆえんであろう。たとえば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだという上臈の故郷で、わが民族のあいだにことに美しく発達した二処の水の神の交通を伝うる説話の、注意すべき一例を留めている沼であるが、これもダイラボッチが赤城山に腰を掛けて、うんと踏張った足形の水溜りだというロ碑がある。榛名の方ではまた榛名富士が、駿河の富士よりも一もっこだけ低い理由として、その傍なる一孤峰を一畚山と名づけている。あるいはそれを榛名山の一名なりともいい、今一畚たらぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも伝える。その土を取った跡が、あの静かな伊香保の湖水であり、富士は甲州の土を取って作ったから、それで山梨県は雛鉢の形だと、余計な他所の事までこのついでをもって語っている。この山の作者の名は単に大男と呼ばれている。榛名の大男はかつて赤城山に腰をかけて、利根川の水で足を洗った。その折に臑についていた砂を落したのが、今の臑神の社の丘であるともいう。
 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太という無双の強力があって、足をもって蹴開いたという話がある。中仙道の路上からこの穴のよく見える半年石という処に、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、その時の記念なりと伝えられた。『絨石録』という書には、大太は南朝の忠臣なり、出家してその名を大太法師、またの名を妙義と称すとあるが、いかなる行き違いからであろうか、貝原益軒の『岐蘇路記』を始めとし、この地を過ぐる旅人は、多くはこれを百合若大臣の足跡と教えられ、あの石門は同人が手馴らした鉄の弓をもって、射抜いた穴だという説の方が有力であった。百合若は「舞の本」によれば、玄海の島に年を送り、とても関東の諸国までは旅行をする時をもたなかったように見えるが、各地にその遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の緑丸までが、奥羽の果てでも塚を築いて弔われている。いかなる順序を経てそういうことになったかは、ここで簡単に説き尽すことは不可能だが、つまりは村々の昔話において、相応に人望のある英雄ならば、思いのほか無造作にダイダラ坊の地位を、代って占領することを得たらしいのである。
 自分のこれからの話は大部分がその証拠であって、特に実例を挙げるまでもないのだが、周防の大島の錨ヶ峠の近傍には、現在は武蔵坊弁慶の足跡だと称するものが残っている。昔笠佐の島が流れようとした時に、弁慶ここに立って踏張ってこれを止めたというのである。紀州の日高郡の湯川の亀山と和田村の入山とは、同じく弁慶が眷に入れて荷うて来だのだが、鹿瀬峠で朸が折れて、落ちてこの土地に残ったといい、大和の畝傍山と耳成山、一説には畝傍山と天神山とも、やはり「万葉集」以後に武蔵坊がかついで来たという話がある。朸がヤーギと折れた処が八木の町、いまいましいと棒を棄てた処が、今の今井の町だなどとも伝えられる。そんな事をしたとあっては、弁慶は人間でなくなり、従ってこの世にいなかったことになるのである。実に同人のためにはありがた迷惑な同情であった。
 それはともかくとして信州の側へ越えてみると、また盛んにダイダラ坊が活躍している。戸隠参詣の道では飯綱山の荷負池が、『中陵漫録』にも出ていてすでに有名であった。これ以外にも高井郡沓野の奥山に一つ、木島山の奥に一つ、更級郡猿ヶ番場の峠にも一つ、大楽法師の足跡池があると、『信濃佐々礼石』には記している。少し南へ下れば小県郡の青木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山にも、その間二十余丁を隔って二つの大陀法師の足跡があり、いずれも山頂であるのに夏も水気が絶えず、莎草科の植物が茂っている。昔巨人は一またぎにこの山脈を越えて、千曲川の盆地へ入って来た。その折両手に提げて来たのが男岳・女岳の二つの山で、それゆえに二峰は孤立して間が切れているという。
 東部日本の山中にはこの類の窪地が多い。それを鬼の田または神の田と名づけて、あるいは蒔かず稲の口碑を伝え、またあるいは稲に似た草の成長をみて、村の農作の豊凶を占う習いがあった。それが足ノ田・足ノ窪の地名をもつことも、信州ばかりの特色ではないが、松本市の周囲の丘陵にはその例がことに多く、たいていはまたデエラボッチャの足跡と説明せられているのである。その話もしてみたいが長くなるから我慢をする。ただ一言だけ注意を引いておくのは、ここでも武相の野と同じように、相変らず山を背負うて、その縄が切れていることである。足跡の湿地には甚だしい大小があるにかかわらず、落し物をして去ったという点はほとんと同一人らしい粗忽である。小倉の室山に近い背負山は、デエラボッチャの背負子の土よりなるといい、市の東南の中山は履物の土のこぼれ、倭村の火打岩は彼の燧石であったというがごとき、いずれも一箇の説話の伝説化が、到る処に行われたことを示すのである。
 ただし物草太郎の出たという新村の一例のみは、あるいはダイダラ坊ではなく三宮明神の御足跡だという説があったそうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異とも見えるが、そういう変化はすでにいくらでも例がある。上諏訪の小学校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長という諏訪明神の御家来と伝うる者もあれば、またデイラボッチだと小う人もあって、旧神領内には数箇所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡からできたという窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、単に給仕人また侍者を意味し、実際は必ずしも手の長い人たることを要しなかったが、いわゆる荒海の障子の長臂国、長脚国の蛮民の話でも伝わったものか、そういう怪物が海に迫った山の上にいて、あるいは手を伸ばして海中の蛤を捕って食い、あるいは往来の旅人を悩まして、後に神明仏陀の御力に済度せられたという類の言い伝えが、方々の田舎に保存せられている。名称の起りはどうあろうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業をなし遂げた者は、必ずまた非凡なる体格を持っていたろうというきわめてあどけない推理法が、いちばんの根源であったことはほぼ確かである。それが次々にさらに畏き神々の出現によって、征服せられ統御せられて、ついに今日のごとく零落するに至ったので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、かつて一度はそれぞれの黄金時代を、もっていたものとも想像し得られるのである。
 ゆえに作者という職業の今日のごとく完成する以前には、コソトには必ず過程があり種子萌芽があった。そうしてダイダラ坊は単に幾度か名を改め、その衣服を脱ぎ替えるだけが、許されたる空想の自由であった。たとえば上州人の気魄の一面を代表する八掬脛という豪傑のごときも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛の亜流であり、また長臑彦・手長足長の系統に属するように見えるが、その最後に八幡神の統制に帰服して、永く一社の祀りを受けているという点においては、依然として西部各地の大人弥五郎の形式を存するのである。しかもかつては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌われた巨人が、わずかに貞任・宗任の一族安倍三太郎某の、そのまた残党だなどと伝説せられ、縄梯子を切られて巌窟の中で餓死をしたというような、花やかならぬ最後を物語られたのも、実はまた無用な改名に累わされたものであった。八掬脛はそう大した名前ではない。一掬を四寸としてもせいぜい三尺余りの臑である。だから近世になるといろいろな講釈を加えて、少しでもその非凡の度を恢復しようとした跡がある。たとえばこの国の領主小幡宗勝、毎日羊に乗って京都へ参観するに、午の刻に家をたって申の刻には到着する。よって羊太夫の名を賜わり、多胡の碑銘に名を留めている。八束小脛はその家来であって、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶがごとくであったのを、ある時昼寝をしている肢の下を見ると、鳥の翼のごときものが生えていた。それをむしり取ってから随行ができず、羊太夫も参観を怠るようになって、後には讒言が人って誅罰せられたなどと語り伝えて、いよいよわがダイダラボッチを小さくしてしまったのである。

一夜富士の物語

 話が長くなるから東海道だけは急いで通ろう。この方面でも地名などから、自分が見当をつけている場処は段々あるが、実はまだ見に行く折を得ないのである。遠州の袋井在では高尾の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と称する涌水の池があるのを、山中共古翁は往って見たといわれる。見附の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水の溜まる凹地があって、それは大ダラ法師の小便壷といっていたそうである。尾張の呼続町の内には大道法師の塚というものがあることを、『張州府志』以後の地誌にみな書いている。『日本霊異記』の道場法師は、同じ愛知郡の出身であるゆえに、かれとこれと一人の法師であろうという説は、主としてこの地方の学者が声高く唱えたようであるが、それも弁慶・百合若同様の速断であって、とうてい一致のできぬ途法もない距離のあることを、考えてみなかった結果である。
 たとえば丹羽郡小富士においては、やはり一簣の功を欠いた昔話があり、木曾川を渡って美濃に入れば、いよいよそのような考証を無視するにたる伝説が、もういくらでも村々に分布しているのである。通例その巨人の名をダダ星様と呼んでいるということは、前年『民俗』という雑誌に藤井治右衛門氏が書かれたことがある。この国旧石津郡の大清水、兜村とかの近くにも大平法師の足跡というものがあると、『美濃古蹟考』から多くの人が引用している。里人の戯談にこの法師、近江の湖水をI跨ぎにしたというとあることは有名な話である。
 『奇談一笑』という書物には何に依ったか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思うものを載せている。古大々法師という者あり。善積郡の地を挙げてことごとく掘りて一簣となし、東に行くこと三歩半にしてこれを傾く。その掘るところはすなわち今の湖水、その委土は今の不二山なりと。しこうして江州にあるところの三上・鏡岩・倉野寺等の諸山は、いずれも簣の目より漏り下るものというとある。孝霊天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したということは、ずいぶん古くから文人の筆にするところであったが、それが単に噴火の記事を伝えたのなら、おそらくこのようには書かなかったであろう。すなわち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るということは当時いたって普通なる信仰であったゆえに、詳しい年代記として当然にこれを録したというに過ぎなかった。『日本紀略』には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に鼓を鳴らすがごとき音が聞えた。人ありて日う、伊豆国西北の二面、自然に増益すること三百余丈、さらに一島をなす。すなわち鼓の音のごときは神この島を造りたまう響きなりと。伊豆の西北には島などはなく、大和の都まで音が聞えるはずもないのに、正史に洩れて数百年にしてこの事が記録に現われた。しかも日本の天然地理には、こう感じてもよい実際の変化は多かった。すなわち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあったのである。
 琵琶湖の附近において、この信仰が久しく活きていたらしいことは、白髭明神の縁起などがこれを想像せしめる。木内石亭は膳所の人で、石を研究した篤学の徒であったが、その著『雲根志』の中に次のごとく記している。甲賀郡の鮎河と黒川との境の山路に、八尺六面ばかりの巨石があって、石の上に尺ばかりの足跡が鮮やかである。宝暦十一年二月十七日、この地を訪ねてこれを一見した。土人いう、これは昔ダダ坊という大力の僧あって、熊野へ通ろうとして道に迷い、この石の上に立った跡であると。ダダ坊はいかなる人とも知らず、北国諸所には大多法師の足跡というものがあって、これもいかなる法師かを知る者はないが、思うに同じ人の名であろうと述べている。自分の興味を感ずるのは、ダダ坊というような奇妙な名はこれほどまでひろく倶通しておりながら、かえってその証跡たる足形の大いさばかり、際限もなく伸縮していることである。
 そこで試みにこの大入道が、果していずれの辺まで往って引き返し、もしくは他の霊物にその事業を譲って去ったかを、尋ねてみる必要があるのだが、京都以西はしばらく後廻わしとして北国方面には自分の知るかぎり、今日はもうダイダ坊、あるいは大田坊の名を知らぬ者が多くなった。しかし『三州奇談』という書物のできた頃までは、加賀の能美郡の村里にはタンタン法師の足跡という話が伝わり、現にまたその足跡かと思われるものが、少なくもこの国に三足だけはあった。いわゆる能美郡波佐谷の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬ処があった。その次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡という田の中に中に、これもいたって鮮明なる足跡が残っていた。下に石でもあるためか、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかった。今一つは越中との国境、有名なる栗殻の打越にあった。いずれも長さ九尺幅四尺ほどとあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小ささだが、その間隔はともに七八里もあって、あるいは加賀国を三足に歩いたのかと考えた人もある。もちろんそのような細引のごとき足長は、釣合の上からもとうていこれを想像することを得ないのである。

鬼と大人と

 高木誠一君の通信によれば、福島県の海岸地方では、現在は単にオビトアシト(大人足跡)と称えている。しかもその実例はきわめて多く、現に同君の熟知する石城・双葉の二郡内のものが、九ヶ処まで算えられる.その面積は五畝歩から一段まで、いずれも湿地沼地であり、または溜池に利用せられている。鉄道が縦断してから元の形は損じたけれども、久ノ浜・中浜の不動堂の前のつつみ、それから北迫の牛沼のごときは、大人がこの二ヶ処に足を踏まえて三森山に腰をかけ、海で顔を洗ったという話などがまだ残っているという。
 宮城県に入ると伊具郡農狼山の巨人などは、久しい前から手長明神として祀られていた。山から長い手を延ばして貝を東海の中に採って食うた。新地村の貝塚はすなわちその貝殻を捨てた故跡などという口碑は、必ずしも常陸の『古風土記』の感化と解するを須いない。名取郡茂庭の太白山を始めとして、麓の田野には次々に奇抜なる印象が、多くの新しい足跡とともに散乱していたのである。ただし大人の名前ぐらいは、別に奥州の風土に適応して、発生していてもよいのであるが、それさえなお往々にして関東地方との共通があった。たとえば『観蹟聞老志』は漢文だからはっきりせぬけれども、昔白川に大胆子と称する巨人があって、村の山を背負って隣郷に持ち運んだ。下野の茂邑山はすなわちこれで曲って、那須野の原にはその時の足跡があるという。ただしその幅は一尺で長さが三尺云々とあるのは、これも少しばかり遠慮過ぎた吹聴であった。
 もっとも大胆子を本当の人間の大男と信ずるためには、実は三尺二尺といって諏てもなお少しく行き過ぎていた。だから悪路王、大竹丸、赤頭という類の歴史的人物は、後にその塚を開いて枯骨を見たという場合にも、脛の長さは三四尺に止まり、歯なども長さ二寸か三寸のものが、せいぜい五十枚ぐらいまで生え揃うていたようにいうのである。従って名は同じく大人といっても、近世岩木山や吾妻山に活きて住み、折々世人に怖ろしい姿を見せるという者は、いわば小野川・谷風の少しのびたほどでたくさんなのであった。それが紀伊・大和の弁慶のごとく、山を背負い巌に足形を印すということも、見ようによってはいよいよもって尊び敬うべしという結論に導いたかも知れない。すなわち近江以南の国々の足跡面積の限定は、一方においては信仰の合理的成長を意味するとともに、他の一方には時代の好尚に追随して、大事な昔話を滑稽文学の領域に、引き渡すに忍びなかった地方人の心持が窺われると思う。もしそうだとすれば中世以来の道場法師説のごときは、また歴史家たちのこの態度に共鳴した結果といってもよいのである。
 奥羽地方の足跡のだんだんに小さくなり、かつ岩石の上に印した例の多くなって行くことは、不思議に西部日本の端々と共通である。自分などの推測では、これは巨人民譚の童話化とも名づくべきものが、琵琶湖と富士山との中間において、ことに早期に現われたためではないかと考える。しかも出作りの一条のその後に附添した挿話でなかったことは、ほぼ確かなる証拠がある。会津柳津の虚空蔵堂の境内には、有名なる明星石があって、石上の足跡を大人のだと伝えているに、猪苗代湖の二子島では、鬼が荷のうて来た二箇の土塊が、落ちてこの島となると称し、その鬼が怒って二つに折れた天秤棒を投げ込んだという場処は、湖水の航路でも浪の荒い難所である。すなわち足跡はたいてい人間より少し大きいくらいでも、神だから石が凹み、鬼だから山を負う力があったと解したのである。『真澄遊覧記』には、南秋田の神田という村に、鬼歩荷森があると記して、絵図を見ると二つの路傍の塚である。あんな遠方までもなお大人は山を運んであるいた。そうして少なくともその仕事の功程によって判ずれば、鬼とはいっても我々のダイダラ坊と、もともと他人ではなかったらしいのである。

太郎という神の名

 自分等が問題として後代の学者に提供したいのは、必ずしも世界多数の民族に併存する天地創造譚の些々たる変化ではない。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、いつからまたいかなる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、もしくはこれに近い名をもって呼び始めたかという点である。京都の附近では広沢の遍照寺の辺に、大道法師の足形池があることを、『都名所図会』に挿画を入れて詳しく記し、乙訓郡大谷の足跡清水は、『京羽二重』以下の書にこれを説き、長さ六尺ばかりの指痕分明なりとあって、今の長野新田の宇大道星はすなわちこれだろうと思うが、去って一たび播州の明石まで踏み出せば、もうそこには弁慶の荷塚があって、奥州から担いで来た鉄棒が折れ、怒ってその棒で打っなと称して頂上が窪んでいた。だからダイダ坊などはよい加減の名であろうと、高を括る人もあるいはないと言われぬが、自分だけはまだ決してそう考えない。畿内の各郡から中国の山村にかけて、往ってはみないが大道法師、ダイダラ谷、ダイダラ久保等という地名が、並べてよければいくらでもここに挙げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬゆえに、大人という普通名詞で済ましておき、弁慶が評判高ければあの仁でもよろしとなったのであろう。笠井新也君が池田の中学校にいた頃、生徒にすすめて故郷見聞録を書かせた中に、備前赤磐郡の青年があって、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師という者が来て、山から山を跨いで去っな。それで土人がその足跡を崇敬すると述べている。耶蘇教伝道の初期には、いずれの民族にもこんな融合はあったものである。
 紀州の百余の足跡はその五分の一を弁慶に引き渡し、残りを大人の手に保留している。美作の大人足跡もその一部分を土地の怪傑目崎太郎や三穂太郎に委譲している。西は備中・備後・安芸・周防、長門・石見などでもただ大人で通っている。それから四国へ渡ると讃州長尾の大足跡、また大人の蹴切山がある。伊予でも同じく長尾という山の麓に、大人の遊び石という二箇の巨巌があった。阿波は剣山山彙を続って、もとより数多い大人様の足跡があり、あるいは名西地方の平地の丘に、出作りの番の目から、こぼれてできたというものも二つもある。土佐でも幡多・高岡の二郡には、いろいろの例があっていずれも単に大人田、もしくは大人足跡で聞えていた。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間はないのかと思うと、あに測らんや柳瀬貞重の筆録を見ると、かえって阿波に近い韮生郷の山奥に、同名の巨人は悠然として隠れていた。すなわちこの筆者の居村なる柳瀬の在所近くに、立石・光石・降石の三箇の磐石があって、前の二つはダイドウボウシこれを棒にかっぎ、降石は袂に入れてこの地まで歩いて来ると、袖が綻びてすっこ抜けてここへ落ちた。それで降石だと伝えているのである。
 そこで私たちは、これほどにしてまでもぜひともダイドウボウシでなければならなかった理由は何かということを考えてみる。それにはまず最初に心づくのは、豊後の娠岳の麓において、神と人間の美女との間に生まれた大太という怪力の童児である。山崎美成の『大多法師考』に引用する書『言字考』には、近世山野の際に往々にして大太坊の足樅と伝うるものは、疑うらくはこの輝童のことかと言っている。証拠はまだ乏しいのだから冤罪であっては気の毒だが、少なくとも緒方氏・臼杵氏等の一党が、この大太を家の先祖とせんがために、すこぶる古伝の修正を試みた痕hs認められる。なるほど後に一方の大将となるべき勇士に、足跡が一反歩あっては実は困ったもので、山などはかついで来なくとも、別に神異を説く方便はあったのであろう。しかしどうして大太というがごとき名が附いたかといえば、やはり神子にしてかつ偉大であったことが、その当初の特徴であったゆえなりとり解するの他はなかったのである。
 柳亭種彦の『用捨箱』には、大大発意はすなわち一寸法師の反対で、これも大男をひやかした名だろうと言ってある。大太郎といういみじき盗の大将軍の話は、早く『宇治拾遺』に見えており、烏帽子商人の大太郎は『盛衰記』の中にもあって、いたってあケふれた名だから不思議もないようだが、自分はさらに朔って、何ゆえに我々の家の惣領息子を、タロウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入って来てちょうど太の字と郎の字を宛ててもよくなったが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦・帯姫だのという貴人の御名があったのを、まるで因みのないものと断定することができるであろうか。筑後の高良社の延長年間の解状には、大多良男と大多良畔のこの国の二神に、従五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の『人聞菩薩朝記』には、豊前の猪山にも大多羅眸神を祭ってあったと述べている。少なくもその頃までは、神にこのような名があっても怪まれなかった。そうしておそらくは人類のために、射貫き蹴裂きというような奇抜極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡はまたその宣誓の証拠として、神聖視せられたものであろうと思う。

『古風土記』の巨人

 そう考えるとダイダラ信仰の発祥地でなければならぬ九州の島に、かえってその口碑のやや破砕して伝わった理由もわかる。すなわち九州東岸の宇佐とその周囲は、巨人神話の古くからの一大中心であったゆえに、同じ古伝を守るときは地方の神々はその勢力に捲き込まれる懸念があったのみならず、一方本社にあっては次々の託言をもって、山作り以上の重要なる神徳を宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなってしまうので、むしろこれを語らぬのを有利とする者が多くなったのである。これは決して私の空漠たる想像説ではない。日本の八幡信仰の興隆の歴史は、ほとんと一つ一つの過程をもって、これを裏書きしていると言ってよいのだ。
 これを要するに巨人が国を開いたという説話は、本来この民族共有の財産であって、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認もこれから出ていた。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前『久しく大多良の名は仰ぎ尊まれていたので、その証跡は足跡よりもなお鮮明である。諾冊二尊の大八洲生誕は説くも畏いが、今残っている幾つかの『古風土記』には、地方の状況に応じて若干の変化はあっても、一として水土の大事業を神に委ねなかったものはないと言ってよろしい。その中にあって常陸の大櫛岡の由来のごときはむしろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の国引きの物語、さては播磨の託賀郡の地名説話のごとき、目を閉じてこれを暗んずれぱ、親しく古え人の手を打ち笑し歌うを聴くがごとき感がある。まだ知らぬ諸君のために、一度だけこれを誦してみる。日く、右託加と名づくるゆえんは、昔大人ありて愉喰勾りて行きたりき。南の冶りり北の海に到り、東より(西に)巡り行きし時にこの土に来到りていえらく、他の土は卑くして常に勾り伏して往ぎたれども、この土は高くあれば伸びて行く。高きかもといえり。かれ託賀の郡とは日うなり、その喩みし迹処、数々、沼となれり(以上)。私の家郷も
また播磨である。そうして実際こう語った人の後裔であることを誇りとする者である。
 証拠は断じてこればかりではなかった。南は沖縄の島に過去数千年のあいだ、口ずから耳へ伝えて今もなお保存する物語にも、大昔天地が近く接していた時代に、人はことごとく蛙のごとく這ってあるいた。アマソチュウはこれを不便と考えて、ある日堅い岩の上に踏張り、両手をもって天を高々と押し上げた。それから空は遠く人は立って歩み、その岩の上には大なる足跡を留めることになった。あるいはまた日と月とを天秤棒に担いで、そちこちを歩き廻ったこともある。その時棒が折れて月日は遠くへ落ちた。これを悲しんで大いに泣いた涙が、国頭本部の涙川となって、末の世までも流れて絶えせずと伝えている(故佐喜真興英君の南島説話による)。アマッチュウは琉球の方言において、天の人すなわち太始祖神を意味しており、まさしくとの群島の盤古であった。そうしてこれが赤道以南のポリネシヤの島々の、ランパパの昔語りと近似することは、私はもうこれを架説するの必要を認めない。

大人弥五郎まで

 これまでに大切な我々が創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜に基いて、後ようやく微にしてかつ馬鹿馬鹿しくなった。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を回避して外海に向わんとしたかのごとき姿がある。壱岐の名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先だって、まずこの島の御津浦に上陸なされたと称して、『太宰管内志』には御津八幡の石垣の下にある二石と、この浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述している。いずれもその大いさ一尺二一寸、爪先は東から西に向いている。信徒の目をもって見れば、それ自身が神の偉勲の記念碑に他ならぬのだが、しかも『壱岐名勝図誌』の録するところでは、この島国分の初丘の上にあるものは、大はすなわちはるかに大であって、全長南北に二十二間、栂指の痕五間半、腫の幅二間、少し凹んで水づいているとあるが、これは昔大という人があって、九州から対馬に渡る際に足を踏み立てた跡だといい、しかも村々にも同じ例が多かったのである。それまではまだよいが、肥前平戸島の薄香湾頭では、切支丹伴天運と称する怪物があって、海上を下駄ばきで生月その他の島々に跨いだともいっている。すなわち古く近江の石山寺の道場法師の故流と同じく、残っているのは下駄の歯の痕であったのである。
 そこから南へ下って肥後鹿本郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に算えられる波留の大石のごとき、ともに大人の足跡というのみで、神か鬼かのけじめさえ明瞭でない。その名の早く消えたのも怪しむに足らぬのである。ところがこれから東をさして進んで行くと、諸処にあたかも群馬県の八掬脛のごとく、神に統御せられた大人の名と話が分布している。阿蘇明神の管轄の下においては鬼八法師、または金八坊主というのが大人であった。神に追われて殺戮せられたというかと思うと、塚あり社あって永く祀られたのみならず、その事業として残っているものが、ことごとく凡人をして瞳目せしむべき大規模なものであり、しかも人間のためには功績があって、あるいはもと大神の春属であったようにも信ぜられたのであった。
 その矛盾の最初から完全に調和せぬものであったことは、さらに日向・大隅の大人弥五郎と、比較してみることによって明白になるかと思う。弥五郎は中古に最も普通であった武家の若党家来の通り名で、それだけからでも神の従者であったことが想像せられる。しこうして大人弥五郎の主人は八幡様であった。大隅国分の正八幡宮から、分派したろうと思う附近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作ってこれを大人弥五郎と名づけ、神前に送り来たって後に破却し、または焼き棄てること、あたかも津軽地方の佞武多などと一様であった。そうしてその行事の由来として、八幡宮の大人征服の昔語を伝えているのである。あるいはその大人の名を、大人隼人などと説いたのも明白なる理由があった。すなわち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く参与せられ、その記念として今日の正八幡があるのだという在来の歴史と、こうすれば確かにやや一致して来るからである。
 『大人隼人記』という近代の伝記には、国分上小川の拍子橋の上において、日本武尊大人弥五郎を誅戮したまうなどといっているそうだ。その屍を手切り足切り、ここに埋め彼処に埋めたという類の話は、今も到る処の住民の口に遺っているのだが、しかも一方においては大人はなお霊であって、足跡もあれば山作りの物語も依然として承継せられるので、それほど優れた神を何ゆえに兇賊とし、屠って後また祭らねばならなかったかの疑いは、実はまだ少しも解釈せられてはいなかった。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈周五町余、他の一つはほぼその半分である。相距ること一町ばかり、これも昔大人弥五郎が草畚で土を運んだ時に、棒が折れてこぼれてこの塚となったという点は、富士以東の国々と同じである。ひとり山を荷うて来たのみでない。日向の飫肥の板敷神社などでは、稲積弥五郎大隅の正八幡を背に負い、この地に奉安して社を建てたといい、やはりその記念として行うところの人形送りは、全然他の村々の浜殿送りの儀式、隼人征討の故事というものと一つである。それから推して考えて行くと、肥前島原で味噌五郎といい、筑豊・長門において塵輪といい、備中で温羅といい、美作で三穂太郎・目崎太郎といい、因幡で八面大王などと伝えている怪雄、それから東に進むと美濃国の関太郎、飛騨の両面の射儺、信州では有明山の魏石鬼、上州の八掬脛、奥羽各地の悪路王・大武丸、及びその他の諸国で簡単に鬼だ強盗の猛なる者だと伝えられ、ほとんと明神の御威徳を立証するために、この世に出てあばれたかとも思われる多くの悪者などは、実は後代の神戦の物語に、若干の現実味を鍍金するの必要から出たもので、たとえば物部守屋や平将門が、死後にかえって大いに顕われたごとく、本来はそれほど純然たる兇賊ではなかったのかも知れぬ。それは改めてなお考うべしとしても、少なくとも弥五郎だけは忠実なる神使であった証拠がある。しこうしてそれが殺戮せられて神になったのは、また別の理由があったのである。
 もう長くなったからとにかくにこの話だけの結末をつけておく。我々の巨人説話は、二つ の道をあるいて進んで来たらしい跡がある。その一方は夙に当初の信仰と手を分ち、単なる古英雄説話の形をもって、諸国の移住地に農民の伴侶として入り来たり、彼等が榾火の側において、児女とともに成長した。他の一方は因縁深くして、春秋の神を祭る日ごとに必ず思い出しまた語られたけれども、ここでも信仰が世とともに進化して、神話ばかりが旧い型を固守しているということは難かった。すなわち神主等は高祖以来の伝承を無視する代りに、それを第二位第三位の小神に付与しておいて、さらに優越した統御者を、その上に想像し始めたのである。名称は形であるゆえに、もとよりこれを新たなる大神に移し、一つ一つの功績だけは古い分からこれを下薦の神におろし賜わったのである。菅原天神が当初憤恚激怒の神であって、後久しからずしてそれは眷属神の不心得だから、訓誡してやろうと託宣せられ、牛頭天王が疫病散布の任務を八王子神に譲られたというがごとき、いずれも大人弥五郎の塚作りなどと、類を同じくする神話成長の例である。いくら大昔でもそんな事はあり得ないと決すれば、おそらくはまた次第に消えて用いられなくなることであろう。
 村に淋しく冬の夜を語る人々に至っては、その点においてやや自由であった。彼等はたくさんな自分の歴史を持たぬ。そうして昨日の向う岸を、茫洋たる昔々の世界に繋ぎ、必ずしも分類せられざるいろいろの不思議を、その中に放しておいて眺めた。いったん不用になって老嫗の親切なる者などが、孫どもの寝つかぬ晩のために貯えていた話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があった。すなわち童話と民譚との境は、渚の痕のごとく常に靡き動いていたのである。しこうしてもし信じ得べくんば力めてこれを信じようとした人々の、多かったことも想像し得られる。伝説は昔話を信じたいと思う人々の、特殊なる注意の産物であった。すなわち岩や草原に残る足形のごときものを根拠としなければ、これをわが村ばかりの歴史のために、保留することができなかったゆえに、ことにそういう現象を大事にしたのである。しこうしてわが武蔵野のごときは、かねて逃水・堀兼井の言い伝えもあったごとく、最も混乱した地層と奔放自在なる地下水の流れをもっていた。泉の所在はたびたびの地変のためにいろいろと移り動いた。郊外の村里にはかつて清水があるによって神を祭り居を構え、それがまた消えた跡もあれば、別に新たに現われた例もまた多い。かくのごとき奇瑞が突如として起るごとに、あるいはかのダイダラ坊様の所業であろうかと解した人の多かったことは、数千年の経験に生きた農夫として、いささかも軽率浅慮の推理ではなかった。説話はすなわちこれに基いて復活し、またしばしばその伝説化を繰り返したものであろうと思う。
                  (「中央公論」昭和二年四月)

編註:柳田は、大正8年(1919年)12月貴族院書記官長を辞任
   代田を訪れたの、翌9年の112日(定本別巻5p.633)

 *玉川上水の開鑿、ひいては代田橋の竣工は1653(承応2)年であるのに対し、戸田茂睡による「紫の一本」の上梓は元和2・3(1682・3)年とされる〔貞享年間説もあるがそれでも1684~8年〕。

 つまり、「紫の一本」は、代田橋の完成からわずか30年後、つまり、当地でその工事〔用水開鑿・架橋だけでなく、甲州道中を付け替え工事もあるので、かなりの人数が近隣からかき集めれれたと思われる〕に関与した人々の多くが、まだ存命していた時期であり、代田の地で、一本に書かれているような伝説が成立していたことは、まず、あり得ないので、甲州道中を往来する遠隔地の人々による噂話の域を出ていなかったと思われる。

■南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」

坪井正五郎「ダイダラボウシの足跡と火の穴」(『東洋学芸雑誌』二五巻三一六号二〇頁)、藤原咲平「ダイラポッチの昔話」(「東洋学芸雑誌」二五巻三一七号八一頁)参照

 喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻の四にいわく、「太太ボッチと言うは、『平家物語』八、豊後・日向両国の界に、姥ヶ嶽という山の下に岩穴ありて大蛇すむ。こは日向国高知尾〔たかちお〕明神神体なり。豊後国に、大太夫という者の娘にこの大蛇通じ、妊みて男子を生む。七歳にして元服して、名を大太という、とあり。『紫の一本』大大橋条に、大太ボッチが掛けたる橋の由言い伝う。肥後国八代領の内に百合若塚というあり、云々。所の者いわく、百合若は賤しき者なり。世に大臣というは大人なり、大太ともいう。大人にて、大力ありて強弓をひき、よく礫をうつ。今大太ボッチとは百合若のことなり、ボッチとは礫のこととぞ、云々。また上州妙義山の道にも、百合若の足跡また矢の跡とてあり。この外にも、大太ボッチが足跡、力業の跡、ここかしこにありといえり、云々、と。古え大勇の業の跡、誰とも知られぬを大太ボッチといいしなり。ボッチを『紫の一本』に礫のことというは非なり、例の法師ということにて、大なる人というほどの義なり。今大なるを大ぼやしというもこれなり、云々」。(〔著者書き込み〕『源平盛衰記』巻三三にも出づ。)
 この大大法師より転訛して、本誌〔東洋学雑誌〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の怪伝を Benjamin Taylor,Storyology,1900,p.11に列挙せる中に、「路側の巌より迸〔ほとばし〕る泉は、毎〔つね〕に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり」とあるを合わせ考うるに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の説は正見と謂うべし。再び攷うるに、『宇治拾遺』三三章に、盗賊の大将軍犬太郎の話あり。その人体躯偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか、中古巨漢を呼ぶ俗間の綽名〔あだな〕と思わる。果たして然らば、太太は反って大太郎の略なり。
 八年前の拙著「神跡考」(Kumagusu Minakata,"Foot Print of Gods, etc," in Notes amd Queries, 9th ser, vi,1900, pp.163-165, 223-226, 323-324)に、神仏、人仙、動物の足跡と称するものの例を多く集めたるに、多くは岩石上に存するものに係り、鈴木〔庄一〕氏の質問に言うごとき、地面にあるはすこぶる希〔まれ〕なり。ただし、支那の史乗に、大沢中に巨人の跡を履みし婦人が、たちまち伏義〔ふっき〕、また棄を孕めりとあるは、あるいはかかる窪穴の、実に地上に存せしに基づける旧伝にもあらんか。(サウゼイの『一八一五年秋和蘭遊記』に、スパ付近にルマクル尊者の足跡あり、婦女妊を欲する者詣りてこれを踏む、とあるは石に彫り付けたるなり。)しかして藤原〔咲平〕氏の通信に見る、ダイラボッチが八ヶ岳を作るに臨み、力足を踏んで茅野に残せりという足跡にやや似たるは、サモア島の創世に、神チイチイが、天を地と割き、押し上げんとて岩上に留めたりという足跡と、漢土の昔、華山と首陽と連なりて、黄河の流を妨げしより、巨霊神、洪水の患を除かんと、二山を折開し、ために手印を華山頂に、足印を首陽麓に留むという話となり。
 いわゆる足跡石はタイロル氏もいえるごとく、天然また人工に成れる岩石上の凹窪の形、多少人間あるいは動物の足跡に類せるものにして、往々過去の世紀に生存せし動物の化石的遺蹟もあるべし。俚俗これらを神仏、鬼仙、偉人およびこれに関係ある動物の足跡と見倣して、幾分か宗教上の信念を加う。その最も名高きはセイロンのアダムス・ピークに現在する長〔たけ〕五フィート幅二フィート半のものにて、仏徒はこれを釈迦の跡といい、梵徒はこれをシヴァの跡とし、回徒はアダム、ノスチク徒はイウェウー、キリスト教徒は、あるいはトマス尊者、あるいはエチオピア女王カソタゼの閹宦〔えんかん〕の遺〔のこ〕すところとし、支那人はこれを盤古氏の留むるところとなす。ジェルサレムのオリヴェット山なる、キリスト左足の跡これに次いで顕われ、欧州諸邦に天主教諸尊者の蹤〔あしあと〕と号するもの、はなはだ衆〔おお〕し。
 回教はもとかかるものを拝するを厳禁したるにかかわらず、ジェルサレム(I.Burton,'Tge Inner Life of Syria,',1875, vol.ii, p.88)およびインド(H. Blohman,In the Journal of the Asiatic Society of Bengal,vol. xli, pt. 1,p.339,1872)に、回祖の足跡と称するものあり。本邦には由来正しき仏足石七あり、と『一話一言』巻一二にあり。なかんずく薬師寺のものは、『万葉集』に和歌あるをもって著わる。この他『唐大和尚東征伝』に載せたる、唐の越州の迦葉〔かしょう〕仏の足跡、平壌洞側の岩上なる、高麗始祖騎馬の蹄痕、チベット・ポタラ殿内の牛酪に印せる宗喀巴〔そうかくは〕の手形・足形。シャム・フラバット山にある仏および随伴の虎・象の蹤、インド・マレプールのトマス尊者最後の足印、ダンウブ河の岩に残せしヘルキュルスの跡、ヘロドタス前にオシリス神ヘエジブト人が捧げし足跡石、アフリカ・ペキュアナラッドの神モジモの洞より出でたる諸獣の跡、南米コロソピアの神使キミザパグアの跡、ニューゼーラッドとハワイの刑死酋長の跡等、枚挙するに遑あらず。
 また遊覧紀念のため、塔の屋根の鉛板等に、おのが足跡を画鎬することは、今も欧州、エジプト等に行なわる(Notes and Queries, 9th. ser.,iv,1899)。英王ウィリアム三世の足跡、そのトルベイに上陸せし点に存して今も見るべしという。漢土にも古くより行なわれしことと見えて、『韓非子』外儲説、左上、第三二に、「趙の主父〔しゅほ〕〔武霊王〕、工〔たくみ〕をして鈎梯〔かけはし〕を施し、潘吾に縁〔よ〕じ、疎人の迹〔あしあと〕をその上に刻ましむ。広さ三尺、長さ五尺。しかしてこれに勒〔きざ〕みていわく、主父かつてここに遊ぶ、と」とあり。
 未開世間の人が、箇人また社会の安寧を謀らんがため、自他の足跡に注意すること綿密を極むるは、Waitz und Gerland,'Antheropologie der Natureoalker,'1861,iii,p.222;Petherick,'Egypt, etc,'1861,pp.72,98,222;Galton.'Finger-prints'1892,p.23;『法苑珠林』巻四五(この話、。ハートソ英訳『アラビア夜譚補遺』一八九四年板、一〇巻三五五頁にも出づ)等、その例に富めり。さればその遺風として、今も清国人の契券に足印を用い(Schmeltz,in International Archive fu:r Ethnographie, vii, p.170, 1895)カンボジアの俗、師父の足跡を絹に押して弟子敬礼す(Moura,'Le Royamume du Candgei,'tom.i, p.197)。R,Smyth,'Thae Aborigines of Victori,',1878.ii,p.309に、ある濠州土人が岩上に手形を画く法を記せるも、紀念のためならん。南米の土人が石に足跡を刻んで事を記せるは、一八九一年、『英国人類学会誌』三七八頁等に出で、欧州にも、ブリタニーの有史前の遺碑に、人の双足を彫れるあり。スウェーデンの青銅器時代 の岩の刻紋に、跣および草鞋穿ちし足の図多き由 、Emile Caltaillac,'Francepre'nistorique,'1889, p.237 に見ゆ。これらはいずれも紀念記事のために遺せるもののごとし。
 人の足跡は、その陰影および映像と等しく、居常身体に付き纏いて離るること罕〔まれ〕なるものなれば、蒙昧の諸民これを陰影映像同様に、人の霊魂の寄託するところと思惟せしは、足跡に種々の妙力を付せしにて知らる。メラネシア人が嫌を避るとて兄妹、姉弟、姑婿、互いにその跡を踏むを憚り、ドイツの鄙人〔ひじん〕が、仇の履〔ふ〕みし芝土を乾かしてこれを羸弱〔るいじやく〕ならしめ、イタリアの俚俗、ガウト〔痛風〕を療せんとして足跡に唾して呪〔まじない〕し、支那の上古に、巨人の足跡を履んで牢むと信じ、古アイルランドの酋長、新たに立つごとに、祖先の足跡を石に彫れる上に立ちて、万事旧風を渝〔か〕えまじき誓言を受けし等これなり。故に最初紀念のために遺されし足跡が、おいおい神異不可測の機能ありとして、崇拝せらるるに及ぶは自然の勢いなり。
 予いまだダイダラボウシの足跡を見ず。その記載またはなはだ簡にして、果たして何物たるを知るに由なしといえとも、類をもってこれを推すに、あるいは上に見ゆる、越の武霊王が藩吾山頂に刻せしめしごとを一種の紀念品なるはなしを、後日に神怪の誕を付せしにあらざるか。
付言。紀州にはタイダラボウシなどの名なく、岩壁上天然の大窪人足の状を呈するものを、弁慶の足跡といい、当地近傍にも一つ二つ見受けるなり。
                (明治四十一年四月『東洋学芸雑誌』二五巻三一九号)


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