滝坂道(現・淡島通り)の淡島から青山方向に通じる
古道「隠田道」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)
下北澤村を通る道ながら、近世期の同村は、渋谷よりも新宿方面との結びつきが強かったようですので、代田村にとっての重要性が大きい道といえるようです。
滝坂道(現・淡島通り)の淡島から青山方向に通じる
古道「隠田道」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)
下北澤村を通る道ながら、近世期の同村は、渋谷よりも新宿方面との結びつきが強かったようですので、代田村にとっての重要性が大きい道といえるようです。
■4月9日から…
下北沢のタウンホールで、東北沢・世田谷代田間の「しもきた線路街」について、「オープンハウス」と命名された、世田谷区が制作してジオラマなどの資料の2回目の展示が始まった。
210313-dezain-kaigi7.pdf (setagaya.lg.jp)
の2ページ目。ジオラマの展示自体は令和3年4月16日まで行われる由。
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| ほぼ全景 |
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| この区間の10メートルを超える標高差も表現されている |
■令和3年3月28日
驟雨の中、世田谷代田駅前広場の開場式が開かれました。
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| テープカット |
この広場には、ヒトの右足の巨大な跡が、道路舗装用のインター・ロッキング・ブロックという部材で、モザイク状に描かれています。
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| 世田谷区制作のジオラマから DaidaraNotesAndQueries: 「しもきた線路街」のジオラマ |
【参照】
https://daita-machidukuri.jimdofree.com/
■この足跡は…
世田谷代田に、かつての代田村時代から伝わる「ダイダラボッチ」という巨人の伝説に基づくもので、
今日配られた、世田谷区北沢総合支所街づくり課が令和3年3月に発行した「世田谷代田 駅周辺まちづくりニュース No.18」の裏面の「代田のダイダラボッチ!」と題したページに「代田村に巨人がのっしのっし」とのタイトルで、同地に伝わるダイダラボッチにまつわる民話が掲載されています。
■この民話は…
駒澤大学の故・櫻井正信名誉教授*が、世田谷区内の民話を精力的に収集し、同区の「区議会だより」に連載された成果をまとめた
クロスメディア・編「改訂・世田谷の民話」世田谷区区長室広報課/1995・刊
中の1篇です(巻末の「編集後記」に、同名誉教授への謝辞があります)。
*櫻井名誉教授は、かつてテレビ東京で放映していた、世田谷区の広報番組
「風は世田谷」中、下記の2篇に登場している。
第80回「せたがや昔ばなし」(昭和62年4月11日放送分)10分08秒~ 第341回「世田谷の民話 豪徳寺の招き猫代田の娘豊作を占う」(平成4年5月7日放送分)
01分13秒~
なお、同名誉教授による世田谷に関係の深い論文としては桜井正信「玉川周辺の歴史地理学的研究 ‐とくに地域開発の構造分析とその方法‐」駒澤地理3〔1965〕pp.18-が、挙げられる。
「代田村に巨人がのっしのっし」と題する1篇(同書 pp.28-29)は、
世田谷区生活丈化部文化課・編「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊
のpp.69-70にも掲載されていますが、そのあらすじは以下のようなものです。
代田村では、数年にわたる旱魃と厳冬で土が冷え込んでしまい、神仏に頼るしかなすすべがなかった
そんなある日、吹き続けていた冷たい北風が吹き止んで、温かい日差しに転じた
空を見渡すと、男体山と浅間山の間に渡された竿にかかる着物が北風を防いでいることに気付いた
その夜、代田村に大男が大きな足音を立てて現れ、夜通し田畑を開墾し、翌朝には、それまで畑だった高台が、湧き水のある水田に変わっていた。
次の日に村人がみると、その大男は、筑波山に腰かけて、浅間山でキセルのタバコに火を点け
代田村に向かって、にっこりとほほ笑んだ。
■しかし…
この民話は、数多くの巨人伝説の中で、かなり特異なタイプに属します。
と、いうのも、日本には、ダイダラボッチに限らず、巨人あるいは異様な力持ちにかかわる伝説は数多くあるのですが、巨人が人目に姿をさらしたという逸話はこれまで見たことがなく、一夜にして、山を動かしたとか代田の例のように田畑を拓いたという話でも、大きな振動や音を立てることはあっても「人に姿を見せない」のが通例といってよいのです。
まして、上記の末尾のように、ヒトとコミュニケーションした話というのは、巨人伝説の一般的な傾向からは、かけ離れているように思えます。
たとえば、
DaidaraNotesAndQueries: だいだらぼっち基礎情報
に引用した、柳田國男「だいだら坊の足跡」には、古今東西のだいだらぼっち伝説が数多く取り上げられていますが、明らかにヒトとコミュニケーションをしたというのは、巨大な脛を黙って天井から下してヒトに洗わせるという伝説がある程度で、「顔を見合わせた」という話ではありません。
■実は…
この民話には、もう一つおかしなところがあります。
まず、巨人の行動を、3つのエピソードに分けて考えてみます。
エピソード1
男体山と浅間山に竿をかけて洗濯物を干す
エピソード2
夜どおし、田畑を開墾する
エピソード3
筑波山に腰をかけて、浅間山でタバコの火を点ける
■この3つの…
内容を見てみると、それぞれが「単体」でも「巨人のお話」として成り立ち得ることがわかります。
ときに、エピソード2は、数多くある「巨人による土木作業の伝説」、大掛かりなものとしては琵琶湖の土を掘って富士山を作るというものがありますが、ほかにも山を動かしたり、田畑を拓いたりする話は枚挙にいとまないので、やや典型から離れるとしても、「その姿を人が垣間見た」かどうかの違いに過ぎないとも言えます(巨人側が意図的・積極的に姿を晒しているわけではない)。
しかも、代田に、巨人の足跡との伝承のある窪地が存在していたことは、別ブログですが、
からも疑う余地がないのですから、エピソード2が、もともと、代田で伝承されていても不自然はありません。
■しかし…
エピソード1と3には、もとから代田に伝承されていたと考えるのには、いわば致命的な問題があります。
なぜなら、 代田から浅間山は見えない* と思われるからです。
*江戸時代の著名な紀行文の一つ、村尾嘉陵「江戸近郊みちしるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕によれば、江戸直近で浅間山を見ることのできるのは、今の埼玉県蕨市のあたりが南端と思われる。
幕府によって公式に江戸の範囲と定められていた代々木村にほど近い代田から浅間山が見えるのであれば、その著者である、徳川御三卿中の一家である清水家の用人(実質的には幕臣と思われる)であるため、日帰りの旅しかできなかった嘉陵が、わざわざ、寅の一點刻(今でいう午前4時)に江戸府内の役宅を出て、9時間かけて「浅間山見たさに」桶川まで足を延ばす必要があったとも思えません。
下図のように、蕨でも浅間山が見えることを知ったのは、その帰途とのことです。
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| 蕨附近から見た浅間山(中央やや左)〔江戸近郊道しるべ26巻〕 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/23 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/24 |
■信仰を…
ベースにして作られたグループである、講中には、大別して、通常、ムラそれもその中の小名(小字)程度の範囲で構成され、原則全員(全戸)参加といってもよいタイプと、それより、やや、というか、ムラを超えた範囲での個人(というより各イエ)参加によるタイプによるものとがありました。
■近世の…
代田村のことを調べてみても、前者の全戸タイプのものとして、秩父三峯神社を崇拝する三峯講が代田本村を中心として結講されていた一方、青梅の武蔵御嶽神社を崇拝する御嶽講〔みたけこう〕が中原を中心として結構されていたことがわかりました。
それに対し、後者の個人参加型の講中として、旧代田村の領域の中には今のところ直接的な手掛かりは見つけられていないのですが、実は、今のところ判明している範囲では、旧・荏原郡内では、、旧下北澤村には、同村、代田村に加え、北隣の旧・豊島郡内の(現・中野区内の)雑色村や幡ヶ谷村といった広域からの講員によって構成された、富士山への信仰で結集された「山富丸平講」という、旧・下北澤村の鈴木家がリーダー(先達〔せんだつ〕)を務めていたと思われる、江戸時代の後半から江戸府中や周辺部をほぼ席巻していた富士講の講中の一つがありました。
(旧若林村にも、同じ、上位組織である「親講」の傘下だったためかと思われる同名の「山冨丸平講」があったようです。)
■ここまでは…
現・北沢1丁目のほぼ真ん中に、この講中の存在を示す大きな石碑があるのでわかってはいたのですが、それ以上に、この講中の活動を示す史料が長くみつかりませんでした。
■最近1年…
ほどですが、この「山富丸平講」の活動にかかわる記録が、鈴木先達のいた旧・下北澤村、あるいは荏原郡ではなく、北隣の豊島郡(明治以降は豊多摩郡)の旧・幡ヶ谷村(と、渋谷村)にあったことがわかりましたので、それらの史料を
北沢1丁目の「富士講碑」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)
にまとめてみましたので、ご笑覧ください。
■以前…
東京都公文書館でコピーをとってきていた、明治21年の
・原本請求番号(綴込番号等)604.B4.11(*049)
電磁的記録媒体番号 D385-RAM
荏原郡代田村の現住戸数・現住人員・民有地・地租を納むる人員金額・所得税を納むる人員金額・国税地方税を納むる人員金額・町村費を納むる人員金額・建物坪数及個数・共有地
・原本請求番号(綴込番号等)604.B4.11(*050)
電磁的記録媒体番号 D385-RAM
荏原郡下北沢村の現住戸数・現住人員・民有地・地租を納むる人員金額・所得税を納むる人員金額・国税地方税を納むる人員金額・町村費を納むる人員金額・建物坪数及個数・共有
が出てきたので、主要な項目を対比してみた。
■明治21年は…
近代であるが、明治維新後、この地は
・農業一般の全国的な傾向としてだが、化学肥料が使われ始めた
・代田村本村の齋田家、下北澤村の阿川家による茶の栽培がほぼピークを迎えていた
という程度の変化はあったが、江戸朱引外の近郊農村としての性格に大きな変化はないと考えられるので、近世末期の当地を知るためにも有用な資料と思われる。
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| 分間第五区図〔抜粋〕 右寄りの薄紫色が下北澤村、左よりの青灰色が代田村 |
■M21代田村々勢
現住戸数 106戸
内 本籍 105戸
寄留 1戸
現住人員 640人
内 本籍 610人
寄留 30人
田 12丁8反2畝10歩
地価 5966円35銭
現時売買実価 8335円25銭1厘
畑 97丁2反3畝5歩
地価 12173円47銭1厘
現時売買実価 38892円68銭
山林 47丁8反7畝4歩
地価 2424円75銭6厘
現時売買実価 1436円16銭
用水費其他ノ協議費
協議費 14円45銭8厘 但シ用悪水費
物産ノ算出高
米 189石6升
価額 907円48銭8厘
陸米 48石
価額 201円60銭
大麦 490石
価額 882円
小麦 108石4斗
価額 455円28銭 ?
裸麦 100石4斗
価額 281円12銭
黍 34石6斗5升
価額 69円30銭
稗 81石
価額 101円25銭
栗 36石
価額 68円40銭
徴発物件調
荷車 74両
人力車 2両
水車 3ヶ所
馬 1頭
■M21下北澤村々勢
現住戸数 99戸
内 本籍 96戸
寄留 3戸
現住人員 584人
内 本籍 547人
寄留 37人
田 11町1反8畝16歩
地価 4516円43銭6厘
現時売買実価 7470円25銭1厘
畑 83丁8反7畝20歩
地価 10273円48銭8厘
現時売買実価 33551円20銭?
山林 31丁7反2畝5歩
地価 795円15銭8厘
現時売買実価 9516円50銭
用水費其他ノ協議費
協議費 4円84銭1厘 但シ用悪水費
物産ノ算出高
米 167石7斗
価額 849円60銭
陸米 52石4斗8升
価額 120円41銭6厘
大麦 469石
価額 844円20銭
小麦 111石2斗
価額 467円4銭
裸麦 116石6斗
価額 226円76銭
黍 29石8斗8升
価額 59円76銭
稗 69石4斗
価額 85円50銭
栗 29石2斗
価額 55円48銭
徴発物件調
荷車 72両
人力車 0両
水車 0ヶ所
馬 0頭
■できれば…
近世期からすでに農家の現金収入源となっていた商品作物である、タケノコや、ダイコンなどの根菜類、ネギなどの蔬菜類の産額もデータとして残しておいて欲しかったところではあるが、ここに掲示されれているデータを見る限り、両村の間に、人口も含めて大きな差異がなかったことがわかる。
【随時追加補充予定】
■「構内通過」型
(4) 小田急 世田谷代田駅 1999/07/16 - YouTube
(4) 小田急の消えゆく地上線(3)世田谷代田駅周辺 - YouTube
1分50秒あたりから
■「前面展望」型
(4) 小田急小田原線 新宿→箱根湯本 1988年6月 前面展望 - YouTube
7分50秒あたりから
(4) 18年前の小田急 新百合ヶ丘→新宿 - YouTube
36分40秒あたりから
■最近…
世田谷代田の足跡や連絡線線路跡が一段落した趣があるので、代田村ひいては隣村の下北澤村の近世史に傾倒しはじめた。
代田の近世史といっても、それらしい情報としては、世田谷吉良氏の没落後に代田に帰農した旧家臣といわれる「代田七人衆」が採り上げられている程度。下北澤村についても同様に帰農した膳場家など4家の名があがる程度。
ただし、下北澤村については、阿川家は元々は毛利に破れた長州の出で徳川の指示で入植したという説もあるし(世田谷区教育委員会民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」同委員会/S53 p.21)、それ以前から定住していた、いわゆる「地付き」として岸田、安野、飯田家の名前があがっている(前掲「下北沢」p.22)のに対し、代田村については、当然七人衆の前から同地にいたはずの「地付き」あるいは「草分け」の名前も不分明。
あとは、幕末の、駒場一揆あるいは駒場野騒擾といわれる駒場狩場周辺の大砲の訓練場への転用を巡る騒動程度(これも、当地の記録ではなく、井伊家の世田谷代官の大場家の文書に依拠するほかない)なので、近世史は「中抜け状態」。
■そのほかの…
両村に関係する古文書として、旧太子堂村森家文書のうち「御用留」(一~三)(世田谷区立郷土資料館・編「世田谷叢書」(8~10巻)世田谷区教育委員会/H26-28・刊)も貴重な史料といえる。
この森家が名主を務めた太子堂村は、文政10(1827)年、関東取締出役(いわゆる「八州廻り」)隷下の統制・連絡網として領主と無関係に組織された、地域ごとの「寄場組合」の代表(小惣代)村だったと思われ、上級庁からの指令や通達その他外部からの連絡事項は、この太子堂村から順次関係村に回覧されている。
その回覧先に、代田村や下北澤村が含まれていることも多く、これらはとりもなおさず、他愛もないものも含めて、各村をめぐる当時の事情を示すことになる。
■近世史の史料についての…
一般論については
近世の村方統治を知るのに有用な文献【その1】
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-7f27.html
近世の村方統治を知るのに有用な文献【その2】
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-d5ab.html
石塔から村の成立時期や発展・停滞・衰退経過を推定する
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/10/post-d8b9.html
世田谷区内の石塔その他石造物については
東京都世田谷区教育委員会・編「世田谷区石造遺物調査報告書 1~4」同委員会・刊/1984~1985
が公刊されている。もっとも、板碑はこの調査時までに失われたものも多いし、地蔵・庚申塔・如意輪観音などは当初の場所から寺院に移されたものが多いことに留意する必要がある。
をまずは参照されたい。
■御嶽社@代田八幡神社・三峯神社@圓乗院関係
後半に、代田や周辺地域の代参講の調査結果
末尾近くに、代田の御嶽社と三峯神社の写真と記事
■ダイダラボッチ関係
■代田連絡線関係、世田谷中原駅関係
■戦前の「職業別明細図」に描かれた代田(と下北沢)
■その他、代田史
【関連動画】
2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社で行われた 世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能) 三土代會餅搗き
*モニュメントといっても、後述の「代田連絡線」のそれと同じように、地表に敷き詰めるインター・ロッキング・ブロックの色の使い分けによって、起伏のない平らな面の上に足跡を表現するので、広場に凸凹は生じませんので、ご安心を。
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| 正しいスペルはこちら チリの鉱山落盤事故時の、救出作戦〔MISION〕 完了〔CUMPLIDA〕時の記念ビデオ画像 |
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| グレーのブロックでレールを、濃いレンガ色のブロックで枕木を表現している。 グレーのブロックの内法は、現物の軌間1067ミリの”近似解”の1100ミリ |