2020年11月28日土曜日

代田に関連する別ブログの記事など

■御嶽社@代田八幡神社・三峯神社@圓乗院関係 

「お狗さま」のお札

  後半に、代田や周辺地域の代参講の調査結果

【ちょっと域外】ご近所の「お狗さま」探訪

  末尾近くに、代田の御嶽社と三峯神社の写真と記事

■ダイダラボッチ関係



■用水関係

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展

世田谷区立郷土資料館「地図で見る世田谷」展〔続報〕

■その他、代田史


  代田村にあった武家の「抱屋敷」

【関連動画】

世田谷区 代田餅搗き

2012年 1月15日 世田谷区代田八幡神社で行われた 世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能) 三土代會餅搗き

東京都民教会の椅子


2020年11月26日木曜日

MISION CUMPLIDA! 代田駅前広場

■昨2020年11月25日…

 代田駅前広場に設置予定の「ダイダラボッチの足跡」のモニュメント*の墨付け(位置決め作業)が終わりました。

*モニュメントといっても、後述の「代田連絡線」のそれと同じように、地表に敷き詰めるインター・ロッキング・ブロックの色の使い分けによって、起伏のない平らな面の上に足跡を表現するので、広場に凸凹は生じませんので、ご安心を。

■これまで…

すでに完成している後述の「代田連絡線」のモニュメントを含め、いろいろと、ご提案やお手伝いをさせていただいた一連の作業が一段落して(あとは、施工者さんに期待するほかないので)、写真のように「ホッ」としているところです。

で、スペイン語で”MISION CUMPLIDA”、英語に翻訳すると”Mission complete”なのでしたが「ホッ」としすぎて、スペルを1か所間違えた^^;。

正しいスペルはこちら
チリの鉱山落盤事故時の、救出作戦〔MISION〕
完了〔CUMPLIDA〕時の記念ビデオ画像

【追記】20201129
文字校正…試しにダメモトでやってみたら、できちゃいました


■こちらが…

代田連絡線跡のモニュメント

グレーのブロックでレールを、濃いレンガ色のブロックで枕木を表現している。
グレーのブロックの内法は、現物の軌間1067ミリの”近似解”の1100ミリ


■この日は…

雨模様だったので、それなりに、メリハリのついた色遣いに見えますが、晴日には乱反射で白っぽくなってしまいますので、「鉄道の線路を表現した」と言われてみないと、何の模様かわからないかもしれませんね。

このあたりの…

意図というか苦労話というか計算というかは、上記の足跡ができあがったときに、差支えのない範囲で、折々追記して行こうかと思います。

2020年11月1日日曜日

旧代田村の御嶽講

■旧荏原郡代田村には… 

他の村と同様に、共通の信仰によってつながった、講中(講社)が数多くあったようで

・世田谷区生活文化部文化課「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊

 旧代田村(本村と飛地下代田)に該る「代田・代沢」の章によれば

三峰講は、現在も講中が三十二名いて、円乗院脇に三峰神社を祀り、毎年五月ごろには代参者〔註「四名」p.174〕を送って信仰を続けているということです。*
 御嶽講(武州御嶽)は、中原地区で行われていましたが、現在は代田八幡神社境内に末社として祀り**、講中は解散しています。」(p.63)

とある。

*この代参は今も続いていて、年1回円乗院で報告会が行われている由。
**この御嶽の末社は本殿右奥の一段高い場所に祀られている(2020/11/12確認)



***
この御嶽講は戦前中原斎田家が講元(主宰者)を務め、戦後もしばらく続いていたが、記録は戦災などで失われたそうである。

■しかし

 この代田の三峯講は今でも存続しているのに対し、御嶽講の方が先に解散してしまったのがなぜなのか、その理由がわからなかった。

 単純に考えると、秩父の三峯社に比べれば、青梅の御嶽社ははるかに近いので、比較的容易に参詣できるのに、である。

 ところが、最近入手した

西海賢二「武州御嶽山信仰史の研究」名著出版/s58・刊

読んでいたら、その p.163に以下のような記述があった。

 小金井の例では、S54当時、貫井南など4町には御嶽講があったが、本町では消滅していた。

「消滅した理由として『御嶽山では近すぎるので旅行の楽しみがうすい』『日帰りでいつでもいけるからつまらない』ということをあげている。」

とのこと。

■この

「近すぎる」「日帰りでもいける」が、戦前あるいは戦後しばらくの間の代田にもあてはまるかどうか、検証してみた。

 「お山」つまり御嶽山の方から、公共交通機関の開通時期を順次調べてみると…

御岳山駅-滝本駅          御岳登山鉄道     昭和10年1月開通*

  *官報:1935年01月15日号「地方鐵道運輸開始御嶽登山鐡道株式會社(鐵道省)
   
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958887/6

青梅鉄道の子会社「奥多摩振興」(現・西東京バスの母体)が、すでにS07年時点で、御嶽駅と小河内を結ぶ乗合自動車を運行していたので、御嶽駅と滝本駅(約3.3キロ)の接続のための、現・御嶽駅-ケーブル下間のバスも、ケーブルの開通にあわせて運行開始された可能性が高い(下図参照・後記追記参照) 

東京乗合自動車株式會社遊覧課「東京から 日かへり 一、二泊 旅行鳥瞰図」アトラス社/S07・刊 抜粋 

【追記】2020/11/15

メルカリに出品されていた、青梅鉄道発行の観光用パンフレット掲載の時刻表によれば「御嶽登山鐵道は目下敷設準備中近々開通の筈」という段階で、すでに御嶽駅・御嶽下間の乗合自動車が運行(7分・15銭)されていたことが確認できた。

   


 

御嶽駅-二俣尾駅              青梅電気鉄道    昭和04年開通(大正12年電化)

二俣尾駅-日向和田駅        青梅鉄道          大正09年開通(明治41年改軌)

日向和田駅-青梅駅           青梅鉄道          明治31年開通

青梅駅-立川駅                 青梅鉄道          明治27年開通(軽便鉄道)

吉祥寺駅                         甲武鉄道           明治32年開業

立川駅-新宿駅                甲武鉄道           明治22年開通

と、明治中期には、すでに新宿から青梅まで列車でゆけるようになっていたことがわかる。

加えて、代田から、甲武鉄道(現・JR中央線)までのルートについてみると

新宿駅-代田橋駅            京王電気軌道      大正04年全通

新宿駅-世田谷中原駅      小田原急行電鉄   昭和02年開通

吉祥寺駅-代田二丁目駅   帝都電鉄            昭和09年全通

なので、昭和10年以降は、ほとんど歩かずに、御嶽のお山に着いてしまうことになる。

 現在のダイヤでは、8時に新代田を出ると10時36分にはケーブルカーの終点に着き、その後の山道と本殿までの石段を見越しても、午前中に参拝可能。

 当時、移動時間がその倍かかったとしても***、早朝に出かければ日帰り可能になってしまっていたのだろうから、さらに御嶽に近い小金井の人たちにとっては、かつての「旅」が「移動」になってしまったように感じられただろうことはよくわかる。

***もっとも、上記地図裏面の観光案内の記事中「奥多摩」によれば、S07当時、新宿-御嶽駅間は
  所要時間約1時間半、運賃92銭。当時新宿-立川間は列車だったためか、所要(実乗)時間は
  今と大差ない(なお、S07年には、列車のほかに立川までの電車が運転開始されている)。
  ちなみに、「三峰山」については
  上野-熊谷間 1時間10分/97銭、熊谷-三峯口間 2時間/1円35銭
  三峯口ー大和間のバスが30銭
  なので、鉄道だけをとっても「乗りで」があるし、同一ルートで現行実乗2時間30分余。 

■また、

・ケーブル開通と同時にハイカーが増えて、かつての深山幽谷の雰囲気が薄れた

 言い換えれば、かつての霊場が俗化してしまったという側面もありそうである。

 ただし、東京都が、従来は参詣する講員のための宿坊を運営していた御師に、一般宿泊業(民宿・旅館)化を奨めるなど、御嶽の観光地化が急速に進んだのは昭和25年ころからのようなのだが〔前掲・西海p.317〕、ケーブルカーの乗車人員をみると〔同p.316「表1」〕、その開通時の昭和10年には、すでに年間乗客数が16万人余と観光地化が進んでいたらしいことがわかる(大正末ころからの観光地化の概説は、前掲・西海pp.137-)。

 また、さらに遡れば
服部一作「武藏御嶽山案内」同/T05・刊
中「五 旅舘の設備」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932734/25
によれば

御嶽山には殆んど旅舘としての設備なし、只參詣者の爲に御師の家にて講中登山の際の参籠を爲さしむるに過ぎざりしが、近年避暑客其他の登山者頗ぷる多くなりたれば、其求めに應じて何れの家にても宿泊せしむる事になれるなり、然〔さ〕れば料金を定めづ客人の心に任せて報酬を爲さしむるの例なりしが、此は却て客人をして迷惑を感じせしむるものなりとて、近來は客人の望みにより料金を定めて宿泊せしむる事と改めたり、未だ料金は區々にして一定せすと雖も、普通一二泊の客は壹圓以内、滞在の避暑客には望みによりて其額を協定す、家屋の構造は総て廣きが故に一夜に數十名を宿泊せしむる事を得べし、寝具等も好みによりては紬、絹布等あり、飲食物は春時は講中の登山期なれば、海魚〔さかな〕も日々東京の魚河岸より汽車にて送り諸物と共に青梅より駄馬にて運び、毎日の往復絶ゆる事なければ、如何なる品にても得られざるなく夏期は新鮮らる山野野蔬の饗應に加ふるに、山麓を廻りて流る多摩川の鮎、又上流の名物鰥〔やまめ〕の如き鮮魚も食膳に上す事を得ぺし、料理の調味は東京風にて頗〔すこぶる〕るよし
生産品としては山葵〔わさび〕、蕨、岩茸、椎茸、粟、山葵漬、羊羹、木地細工等あり、殊に山葵の糟漬は當山の名物にて、土産物として登山者の購な〔あがな〕ひ行くもの頗ぶる多し

とあり、すでにこの時点で、御師たちも、本来は御嶽講の講中参詣者のための宿坊に、登山・観光客を宿泊させていた*ことがわかる(余談ながら、文中の夏場の「飲食物」は非常に魅力的)。

*奥付によれば著者の服部一作の住所は「西多摩郡三田村御嶽山一三〇番地」(現・青梅市見御嶽山130番地)なので、現在でも「宿坊服部山中荘/華の宿やまなか」を営む御師の家である。

(なお、ケーブル開通前の御嶽詣の模様は、
せたがやeカレッジ講座|「世田谷区域の講行事 」第3回
のヴィデオの13分9秒以降を参照)

■先の…

「ふるさと世田谷を語る…」の旧下北澤村に該る「北沢・代沢」の章に

北沢2丁目の田中次郎氏談として
〇講の話
 講と称するものもいくつかありましたが、印象に残っているものは毎年代参といって、毎年地域の代表が一名ないし二名登山に行っていた富士講(山梨県富士山)、御嶽講(奥多摩御嶽神社)、榛名講(群馬県榛名神社)等です。これらの講は地域の各家から「講金」と称する会費を出し合いまして、これを代表が使用して参詣に行ったようです。これは農作物の豊作を祈願する傍ら、農家の人々の「慰安」でもあったようです。(p.197。p.92も同旨 

とある。

 交通機関が発達する前のかつての御嶽参拝は、帰路に、富士講や大山講のような、いわゆる「どんちゃん騒ぎ」をした様子はないものの、青梅の町に立ち寄って、青梅縞という反物を土産に買い込むなど、相応の寄り道をしていたらしい〔前掲・西海pp.260-261〕*

*小倉美恵子「オオカミの護符」新潮社/2011・刊 のp.48によれば、大正期には、川崎土橋の御嶽講では、代参者は、参詣後足を延ばして(おそらく、さらに古くは御嶽から大菩薩峠を越えて)甲州石和温泉で「どんちゃん騒ぎ」してから土橋に戻ったらしい。
 いわば、これがかつての代参講の「標準形」なのだろう。

 これに対し、日帰りが一般的になった後は

「一〇時に登拝して御師宅で昼食(直会をかねて)をとり、二時か三時頃に下山するという講社のケースが一番多い」〔前掲・西海p.215

と、「遊山」はともかく「物見」のゆとりがない。

■今でも…

 遠くて公共交通の面でも不便な、三峯の講中が今でも残り、近くて便利な御嶽の講が消滅したのは、小金井本町と同じ、以上のような

「何の苦労もなく、行って帰れるようになり
 昔なら、青梅あたりで一泊するお金も講金から出たのに
 今はそれも無くなった」

といった理由だったのではなかろうか。

【追記】

 一般的に、御嶽講、三峯講といった「代参講」と呼ばれる項中は、通常は村全体というよりも、村内の「小字」と呼ばれる各集落単位の組織で、しかも、全員参加が標準だったようである。

 どうも、それは、もともとは信仰が機縁といっても、近世期でも、御嶽さんを崇敬しようが、三峯さんを崇敬しようが、その程度の信教の自由はあったわけなのだから、全員参加には別の理由があるらしい。

 どうやら、全員が「参加せざるを得ない」理由としては、代参よりもむしろ、講中で定期的に開かれる集会(「日待講」「月待講」などが指摘されるが、ほかにもまだあったかもしれない)への参加資格が重要だったのだと思われる。

 当時は、今の区議会はもちろん、明治初期の村会すらないわけなのだから、村内とか小字内の「申合せ」とか「情報交換」をする機会はその程度しかかっただろうから、「コミュニティ」の一員として、その運営に参画するには、そういった講中に加わるしたなかった(といっても、別に強制されたわけでもなく、ご先祖さんの時代からの「当たり前」のこととして)結果的に全員参加になったのではないかと思われる。


2020年10月18日日曜日

代田村、下北沢村などでの御嶽、三峯への代参講

■先週…

渋谷宮益坂下の、宮益御嶽神社で、「お犬ささま」つまりオオカミのお札


をいただいてきたのを機に、「お犬さま」のお札を配付している

・青梅の御嶽神社
・秩父の三峯神社
への代参講について調べ始めました。

毎年、代表者をこれらの神社に送り、いただいてきたお札を講員に配る代参講は、三峯神社へのそれが、代田と松原では今も続いているようです。

 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2020/10/post-411332.html

■代田の場合

円乗院東脇にある三峯神社が三峯講のもので、毎年同院で代参の報告会が開かれる由。

2020年11月25日に、三峯神社に参拝してきたが、少し開けられていた祠の中を覗くと、真新しい代参札らしい護符が納められていた。


なお、旧代田村内の御嶽社と三峯社については

【ちょっと域外】ご近所の「お狗さま」探訪: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com)

の、

「2020/11/25」

の項参照

【追々記】
■下代田の三峰社について

代田村には、下代田(現・代沢東部)にも三峯社があったようで
代沢九条の会「代沢1丁目(旧下代田町)を中心とする戦災地図」同会/2007〔2版2008〕・刊
末尾の地図の解説によると、現・代沢一丁目26番の中央部に表示の符号11の場所について「11 空き地(広場) 三峰神社の小さな祠があり、町の集まりや避難訓練の場所になっていた」とある(一部では俗に下代田神社とも呼んでいたようである)。
なお、M13に帝国陸軍が作成した1/20000迅速測図「東京府武藏国豊島郡代々木村荏原郡上目黒村近傍」には、現・代沢一丁目29番の中央部辺りに鳥居マークがあり、後の三峰社の前身かと思われる。

なお、この鳥居マークは、M42の1/10000地形図「世田谷」には存在しない。
その後、T04の同名図では、前記戦災地図の「11」のポイントのある現・代沢一丁目26に該る、当時の下代田135番地の場所に鳥居マークが出現している(その後、同地内での移動はあったようである)。

【追々々記】

●その1
先日、かの代田七人衆の末裔の方にうかがったところ、この種の講中は、いわゆる小字単位で構成されていたためのようであるが、代田本村で構成された三峯講に、下代田地区の講員はいないようである。

したがって、本村のそれとは別に、下代田地区にもかつては、三峯講の講中が存在した可能性がある。

●その2
「特別展 神社参拝と代参講」〔図録〕世田谷区立郷土資料館/H04・刊p.50に

「昭和六十三年の「参拝控」(三峯神社所蔵)によれば、三峯神社に参拝した世田谷の三峯講は、豪徳寺(二組)・砧(大蔵山野講)・上用賀・野沢・下馬・代田であったが、代参の形をとっているのは砧・上用賀・代田の講のみであった。」

とあって、民俗的にも代田(本村)の三峯講は貴重な存在といえる。

【追記】

江戸近郊の紀行文として著名な、十方庵敬順の「遊歴雑記」の

第三編 巻之中 第二十九 秩父贅川の往来

以下に、文化13 (1816) 年5月、三峯講の、いわば代参者の代参として、秩父地方の札所を何か所か巡った後に、三峯神社に参詣し宿坊に泊まった折の描写がある。






2020年8月29日土曜日

やっぱり「代田屯」は、みつからない!!

■区報の…

「せたがや」令和2年8月25日号3面
https://www.city.setagaya.lg.jp/static/oshirase20200825/p02_002.html
に…

「北沢地域の地名の由来を紹介します(代田編)

 永禄12年(1569年)に北条氏康の家臣であった垪和又太郎がこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(「北条分限帳」より引用)。」
とある。

■この…

垪和(はが)又太郎と代田屯の話は、これまでも結構目にしていたし、自身も「真に受けて援用」していた(以下の検証結果からみても、あまりに「イノセント」な判断だったというほかなく、これは、ゴメンナサイというほかない)のだが*、北條分限帳のどこに載っているのか、かつて、少し探してみたことがある。

https://daidarabotch.blogspot.com/2018/11/blog-post.html

*世田谷区生活文化部文化課「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊 pp.25-26 など

その時見つけたのが、早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00600/i04_00600_0132/i04_00600_0132.pdf
だったのだが、pdfの44丁目の、垪和又太郎の条をみても、代田屯はなかった。

■そこで…

今回(この週末いっぱいかかると思っていた仕事が、ちょっとしは発想の転換で、あっさりと片付いたこともあり)、改めて調べてみることにした。

「北條分限帳」で検索すると、国会図書館のデジタル・ライブラリに「北條分限帳」があることがわかった
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538668/46
のだが、これにも「代田屯」はない。

■大体…

この種の史料は、あらかた写本といってよいので、筆写の際の書き落としということがままあるので、他のヴァージョンも調べてみる必要がある。

ところが、同じく、国会図書館の「リファレンス協同データベース」
 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000099006
を読むと、この史料
「小田原北条諸領役帳」
「小田原衆所領役帳」
「北条家分限帳」
「小田原分限帳」
「北條家所領役帳」
と、さまざまな呼ばれ方をされているのがわかった(立ち寄る家ごとに名前が変わるネコならともかく、これは、やっかいである)。

■加えて…

神奈川県立図書館の「小田原衆所領役帳 」
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
によれば

・原本は、天正18年(1590)小田原落城の後、北条氏直が入った高野山高室院の什物として伝わった

系統1
・元禄5年(1692)に武蔵国豊島郡王子の金輪寺第5世宥相が高野山で書写して持ち帰っ た
・高室院、金輪寺共その後焼失したため、宥相の写本をさらに書写したものが多く存在する
・内閣文庫本はこの系統のもの

系統2+
・氏直の叔父氏規の末裔が藩主となった河内狭山藩*に伝わ る狭山本と呼ばれる写本が存在する
   *後北條氏も、傍系ながら徳川時代も大名(当初は旗本)として存続し、明治以降は子爵
・『平塚市史』に収められた今井家本はこの系統に属する
また
・幕末嘉永年間に皆川秀巴という人物が書写したとみられるものが、神奈川県立公文書館及び同金沢文庫に所蔵
・前者は藤沢市文書館から『北条氏所領役帳』(藤沢市史料集20)として刊行

と、いうことで、写本は2.5系統あることになる。

【追記】
この前後の記述がかなりヤヤコシイので、チャートにしてみた。
要するに、「代田屯」への言及がないことについて、未チェックの史料は「金沢文庫・蔵」の写本だけである。


【追記】210809
国会図書館蔵のものについては、「愛岳麓蔵書, 桜川斎蔵書印,冑山文庫」とあった


■このうち…

2系統目は、平塚や藤沢の図書館にゆけば、それぞれ、あっという間に確認できるのだが、コロナと猛暑の中で気軽に行く気にもならないので、1系統目をもう少し探してみることにした。

まず、国会図書館で
小田原北条家所領役帳. [1]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554925
小田原北条家所領役帳. [2]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926
 これらは、先の分限帳と同旨で、家臣ごとの知行地のリスト2分冊
小田原北条家所領役帳. [3]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554927
 こちらは、知行地ごとの、家臣のリスト

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538679/55
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538680/48

を含めて「代田屯」はみあたらず。

■次は…

国立公文書館で、内閣文庫をチェックした

画像があるのは
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F1000000000000010944
51ページ
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F1000000000000010945
61ページ
なのだが、やはり「代田屯」は発見できなかった。

■こうなると…

先の第2系統を、折をみて調べてみるほかなさそうで、
「バックデータが不特定のまま、伝承だけが残っている」
今の状態をなんとかしたいものである。

【追記】

■ふと…

思いついて、神奈川県公文書館のデータベース
https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/
にアクセスしてみたら、なんと

【中世諸家文書】小田原北条氏分限帳

つまり、上記の「系統2」の、画像データがあることがわかった。

垪和又太郎に関する記述は、
【中世諸家文書】小田原北条氏分限帳 巻2(写本)
https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/detail?cls=08_collect_anc&pkey=2200930510

の、19コマ目と20コマ目にあった。*

*これまでの検索で、くずし字にある程度慣れていたことに加え、「板倉修理」という徳川時代の「超」有名な旗本と同姓同名の人のすぐ後なので簡単に見つけることができた。
 徳川期の「板倉修理」は、著名な旗本という意味では「土屋主税」と肩を並べるといってよいが、後者が超ポジティブな意味でなのに対し、前者は超ネガティブな意味で有名なのである。

■しかし…

こちらの、系統2(の少なくとも有力な一つ)にも「代田屯」はなかった。

 こうなると、途方に暮れる話しで
  • 是非とも「平塚市史」で今井家本を確認する必要があるのと同時に*
  • そもそも、この「代田屯」「垪和又太郎」「北條分限帳」のセットは、誰が言い出した話なのかも確認する必要があるだろう
 ここまでくると「代田屯」「垪和又太郎」、ことに「代田『屯』」という固有名詞は、荒唐無稽な妄想の産物とも思えないので、どこかで確認というか、読んでいるはず。

 そうなると、あるいは、当方も時々「やってしまう」ことなのだが、出典の引用ミス、つまり「北條分限帳」という出典表示が誤りで、実際は(何かないわけはないので)他の北條家内の書状などに出てきた話なのではないか、という想像もしている。

【追記】*
「北条氏所領役帳」が掲載されているのは
「平塚市史 資料編 古代・中世」pp.579-882
と分かった。

しかし、google books で内容を検索する限り

「代田屯」に言及されている可能性は、極めて低い(「拼和」ではヒットするが、代田ではヒットしない)。

【追記2】

■ここへ来て…

この話に、大きな問題があることに気が付いた。

 先のとおり
 永禄12年(1569年)に北条氏康の家臣であった垪和又太郎がこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(「北条分限帳」より引用)
 とされているのだが…

■しかし…

そもそも
 永禄12年版の「北條分限帳」あるいは「小田原所領役帳」なんてものが、存在するのであろうか?

【感想】「孫引き」は怖い。
実は、超高名な法律学者の誰もが読む名著に書かれている出典の文献に、どう探してみつからないものがあることが判明している。「ものの本」を書く以上は、原典確認が不可欠な作業であることを、こちらも思い知らされた。

2020年8月6日木曜日

小田急跡地の概要徐々に判明

かねてから話題になっていた、代田の「温泉旅館」

ここ
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000740.000012974.html
にインフォメーションがありました。

箱根の温泉を使うようなのですが、さすがに「湯煙」とはいえないので「由縁」。
というネーミングのようです。

ただし、個人的には、どちらかというと、利害関係が大きいのは、東北沢駅近くにできるはずの「INN」。

遠くのお知り合いが東京に来られるときに、宿泊場所探しに、ここ5年ほど苦労しておりましたので。
とくに、訪ねて来られそうな方々は、どこも近隣に温泉地が多いので、わざわざ東京に来て「何がなんでも温泉」という人は、ほとんど皆無のはずですし、どうしてもという方には、かなり減ってしまったようですが、黒湯を探してご案内しようか、と…

とはいえ、新宿至近という場所柄、予約を取るのがおそらく結構難しそうですが…

2019年8月15日木曜日

ダイダラボッチ川源流部はどこか?

■先日の研究会…


http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/07/post-c904be.html
でのお話の後のご質問が2つありました。

・1つは、松原、具体的には下高井戸駅やや東の弁天池の源流部。

・もう一つは、確か「根津山育ち」と思われる東京農大の先生が現地を巡検してもわからなかったというダイダラボッチ川の源流部
についてです。

■最初の方は…

かつて、それなりに調査して、どこぞのブログだかに書いた覚えがあるので、今回は2つ目のご質問について調べてみました。

この場合、どちらもそうなのですが、要は、地べたの高低が追えればよいわけで、国土地理院の地形図のページ

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.667532/139.663487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

では、レーザー測量による標高が追えるので、それを使うことを考えはしたのですが、しかし、当地は、造成+市街化し尽したような地域です。

そのため、いわば「生の地べた」の高低を追うのは無理だろうと思われますので、

「3000分の1 帝都地形図 羽根木」日本地形社/S22・刊

で、同一標高の等高線のほぼ中点をプロットし、それらをスムーズな曲線でトレースする、という作戦をとりました。

結果は、以下のとおり。



・西方向から合流する宇田川湯支流については*、羽根木川(の支流)との間の分水嶺までほぼ割り出せました
また
・問題の本流についてみると、源流部はどんどんと北東方向に向かっていることが判明

■このように…

等高線を元に描くと極めて明快に見えてくるのですが、ご承知のとおり、実際に行ってみると、
それとわかるほどの高低差を現地で追えるほどの勾配のわかる地域ではありません。

これでは、確かに、私もそうだったのですが、農大の先生のように、現地を巡検したからといって、このルートを探り出すのはまず不可能でしょう。

*近世期には、むしろこちらが「本流」と考えられていた節がある

2019年7月30日火曜日

代田連絡線の地図


 代田連絡線は昭和20年5月の「山の手空襲」後に急遽敷設され、昭和27年ころ撤去、ということなので、同線を描いた地図は限られている。

これまでに判明していたものは、

1 小田急史の主(ヌシ)生方良雄氏所蔵の
   日本地形社「地形図〔1/10000〕」S20測図
生方良雄「小田急の駅今昔・昭和の面影」JTBキャンブックス/2009「代田連絡線」p.57
生活情報センター・編/鎌田達也「井の頭線沿線の1世紀」同センター/2006「新代田」p.123
関田克孝「『大東急』代田連絡線」JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くⅤ」/1998 p.60
    (なお、同書によれば「地図で見る大田区Ⅲ」にも掲載の由)
   に各引用

2 当方手持ちの
   内山地形製図社「北澤警察署管内図〔1/7000〕」(S20代前半)
北沢川文化遺産保存の会「下北沢文士町分化地図(改訂7版)」同会/2017 裏面に転載

 のほかには、なかなか見つからなかった。

 ところが、最近になって、たまたま

3 下図の、
   日本地図株式会社「東京都区分図 世田谷区詳細図〔1/15000〕」S24
  が
世田谷区立郷土資料館「地図でみる世田谷」同/2017 pp.074-075
 に掲載されていることがわかった。