2022年5月18日水曜日

【再録】柳田國男のダイダラボッチ探訪時の地図

 ■代田の…

ダイダラボッチの重要文献の一つ、柳田國男の「一つ目小僧その他」>「ダイダラ坊の足跡」>「巨人来往の衝」(「定本柳田國男集」〔以下「定本」〕5巻pp.306‐) (なお、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444010/193 ) )中のダイダラボッチの探訪記録には、以下のように記されている。*

七年前に役人を罷めて**気楽になったとき、さっそく日を卜してそれを尋ねてみたのである***。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先上がりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れるとみえて中央が薬研になっており、腫の処まで下るとわずかな平地に、小さな堂が建ってその傍に涌き水の池があった。すなわちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。
 あの頃発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。それを読んでいた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向って巡礼を続けたのである。(pp.306‐307)

*この論考の初出は、中央公論昭和2年4月号。
**柳田が「役人を罷め」た、つまり貴族院書記官長を退官したのは大正8年12月24日(「定本」別巻5〔以下「索引」〕)p.633)
***ダイダラボッチの探訪は、大正9年1月12日(前同)

■そのとき…

 柳田が参照していた「武蔵野会の雑誌」とは、時期的にみて、同会発行の「武蔵野」の
第2巻第2号(大正8年7月刊)鈴木堅次郎「駒沢行」(同号pp.75-78)
第2巻第3号(大正8年12月刊)谷川磐雄「武蔵の巨人民譚」(同号pp.34-38)
以外には考えにくい。

 しかし、どちらの論考にも、地図や絵図が掲載されているわけではなく、文章上も、やや詳しい後者であっても「代田の藥師様のある窪地」あるいは「野澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもある由」、「荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山といふ所と、千束村狢窪といふ所」(p.35)とあるだけなので、いわゆる土地鑑がない以上は、目的の「窪地」を探すのにも、途中の経路を「たどる」のにも、地図が必携といえる。

【参照】出穂山トライアングル+だいだらぼっち on google map

■幸い…

だったと思われることは、柳田は、当時すでに、いわゆる郷土研究や地名研究の資料として地図を重要視していて、ちょうど、この探訪の直前の大正7年から8年にかけて、雑誌「都會と農村」(?・刊)(4巻11号~5巻2号)に発表した論考に以下のようなものがある。

自分が此度の経験に由って、何よりも必要と感じましたのは、右の目的をも含む地圖の準備であります。…陸地測量部で作った五萬分一圖や二萬分一圖は、旅人には或は詳し過ぎるかも知りませぬが、立止って生活を觀んとするものにはまだ物足りませぬ。其と云ふのが地形には忠實であつても、兎角に地名を邪魔にする傾きがある爲に、人と天然との関係が分らぬのです。

〔「郷土誌論」>村を觀んとする人の爲に」>「準備地圖」(定本25巻p.52)〕

 また、時期的には少し後になるが、大正15年5月発行の、雑誌「民族」(民族発行所・刊)第1巻第4号で発表した「地名考説」には

地圖の話の序に尚言ふならば、陸地測量部の二萬分一地形圖は、地名研究者に取っては今では何よりも有益な資料である。二萬分一の無い區域は五萬分一に依る他は無いが、地名の数量は隻方同じで無い迄も、大して相違は無いやうに思ふ。

〔「地名の研究」>「地名考察」>「二 地名研究の資料」(定本20巻p.76)〕

とあって、柳田は、2万分の1と5万分の1の地形図を、主に地名研究のために、言い換えれば調査や旅行の対象地以外の地域についても、かなり広く集積し、ときとして両者を比較対照していたと想像される。

■実は…

柳田の、代田・駒沢行きのときには、陸地測量部は、従来からの2万分の1と5万分の1の地形図のほかに、すでに、2万5000分の1と1万分の1の地形図も順次発行を開始しており、代田・駒沢に関する地形図は、当時の最新版を挙げると、以下のとおりとなる

5万分の1M44縮T02鉄補東京西南部 
2万5000分の1 T06測T08鉄補東京西南部 
2万分の1M42測T02鉄補T06改版 世田谷 
1万分の1  M42測T05修測  世田谷  (代田)
  〃M42測T04修測 碑文谷(駒沢・碑衾・千束)

  興味は、柳田が牛込加賀町の家から代田に向かう*ときに携えていたのは、このうち、どの地図なのか、にあった。

*市ヶ谷見附から9系統の市電に乗り、四ツ谷見附で3系統に乗換え、追分で京王電車に乗換えて代田橋に至ったのだろう
 http://toden.la.coocan.jp/route_history_test/t08/route_t08.html 参照

314ct
大正7年9月に神奈川県津久井郡で撮影(当時44歳)
巡検中らしく疲労の色がみえる。

■一般論としては…

これらのうち、最も大縮尺の1万分の1ということになるのだろうが、地図を選ぶには、目的に応じた「使い勝手」も重要である。

 その意味では、目的地であったことが確実な代田と駒沢が、2葉に分かれている点では使い勝手に劣るし、まして、この地図は代田から駒沢への移動時にも必要なのだから、より小縮尺でも解像度に問題がないのなら、できれば避けたいところだろう

*5年ほど前、北海道の道東地区を、簡易軌道と呼ばれた軽便鉄道の痕跡を求めて、車で走りまわったことがある。
 
場所柄、2万5000分の1の地図だと、ほとんど際限のない枚数が必要になることから、5万分の1の地図を持っていったのだが、正解だった。
 仮に2万5000分の1地図を持って行っても、図郭の範囲は、大略南北9㎞×東西11㎞なのだから、1枚分を「あっという間に通り抜けてしまう」ことになるからである。

■そこで…

手許にあるこれらの4図の、代田のダイダラボッチの部分を、ほぼ同じサイズになるように切り出してみた*

Dij50k 1/50000

Dij25k  1/25000

Dij20k  1/20000

Dij10k 1/10000

*なお、これら、どの縮尺の地図でも、代田橋や京王電車の代田橋停留場は、北隣の図郭になる。

さすがに…

1万分の1は精細である一方、5万分の1では針葉樹や水田の記号と等高線が重なっていることもあって「足先の割れた」独特の地形を読み取りにくいなど解像度不足であることがわかる。

 これに対し、2万分の1でも2万5000分の1でも、代田のダイダラボッチの特徴ある地形を確実に読み取ることができ、1万分の1と比べても解像度はほぼ遜色ないといえる*

*もっとも、これは当地が郊外地だからで、市街地については別論

■そうなると…

その2図のうちどちらかということになるが、2万5000分の1の地形図は、図歴を見るとわかるように、いわば後発の規格であり、この図の発売時には、柳田は既に2万分の1を入手していた可能性が高いので、そのスケール感に慣れていたと思われるし、現物をみるとわかるが、図郭の最下端近くに千束村こと馬込村千束の貉窪が納まっている

Pdfsam_m42t0621_e
1/20000図の貉窪

ので、柳田のこの時の目的に照らせば、理想的な地図だったといえそうである。

          

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