2022年5月20日金曜日

【再録】「代田用水」とは「何ぞや?

 代田用水は存在したのか?

【結局】この後、ちょっとおもしろい結論に達しました。

その結末は
当ブログの

玉川上水と代田 【ダイダラボッチを流れた多摩川の水】

  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2019/07/post-c904be.html

 をご覧ください・

図書館から借りてきた…

世田谷区「世田谷区史料 第3集」同/1960・刊の口絵16図
「品川・烏山・上北沢・代田筋用水村々略絵図」(以下「絵図」)
を眺めていましたら、不可解な記載があるのに気が付きました。

 この図

Daitaditch

は、現在の世田谷区の区域内の玉川上水の分水、つまり、左側の上流部から順次、品川用水、烏山用水、北沢用水の水路と水路沿いの村を示した略図なのですが、それらのさらに下流に「代田用水」なる文字があります。

【補註】世田谷区政策経営部政策企画課区史編さん・編
    「世田谷往古来近」同/H29・刊 のp.97により、
    上図が、

    世田谷領用水堀絵図中の「玉川上水および分水諸用水堀図」
    (大場代官屋敷保存会蔵)

    であることがわかった。

 また、絵図には、それぞれの分水の分水口が玉川上水沿いに中抜きの長方形で描かれているのですが、その例に従うと、この「代田村水」なるものの分水口は、代田橋の下流、芥留と水番屋

00017_

付近で、上図のように代田橋と芥留等は近接しているので、おそらくは、それらの下流にあったことになります。

*周囲に数本設置されている高札の記載事項は、国立公文書館・蔵
 「上水記」巻の9 8丁裏 にある
 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000032134&ID=M2010021620324147018&LANG=default&GID=&NO=8&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1

 ただし、絵図に描かれているのは分水口だけで、「代田用水」という以上、当然描かれるはずの、そこからの水路(名称から素直に考えれば代田村までの水路)は描かれていません。

 もっとも、それが最初から描かれていなかったかというと別問題で、江戸時代の玉川上水図などにも例がありますが、図面を改訂するときに、従前の記載事項を地色に近い絵の具で塗りつぶして抹消し、必要に応じそこに上書きしている例も多い(顔料系の泥絵の具なので、比較的容易にできる)ので、絵図の「代田村」という文字を囲う長円の線の右上が欠けているとところからみても、その可能性が高いように思われます。

と、いうのは…

烏山用水について、この絵図には分水口らしい四角形が2つ並んで描かれていて、分水口から烏山村までの水路も、その「塗りつぶし+上書き方式」で改訂されている可能性が高く、しかも、そのような分水口の変更については

世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S58・刊

の「烏山川(烏山用水)」の条にある、〔万治2(1697)年〕「樋口は最初烏山村地内に設けられ,1尺四方・長さ9尺の樋を伏せたが,そののち上北沢用水と同じく上高井戸村地内に移され,水口5寸となり,…」(p.77)との史実と合致しているからです。

 ちなみに,「同じく」とある「上北沢用水」についての同書の記述によれば「取水口は,最初上北沢村内牛窪に設けられ,樋口1尺4寸・長さ9尺とあり,天明8年(1788)上高井戸村第六天前に移されて方1尺となり,…」(p.80)とあるのですが、上北沢用水については、この絵図中に分水口が移転された痕跡はありませんので、どうやら、この絵図が作られたのは、その天明8(1788)年以降ということになりそうです。

しかし…

この「代田用水」なる分水について言及したものは、これまで見てきた玉川上水に関する文献に関する限り(つまり、いわゆる「管見の及ぶ限り」-便利ですね、この言葉-ではありますが)見たことがありません。

 そこで、改めて、何か史料はないものかと探してみたところ

国会図書館のデジタルライブラリ中
「玉川上水留」の [87]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423?tocOpened=1

玉川上水堀通代田村下北沢村下馬〔註:「高」の誤〕井戸村分水口起立書抜并御勘定奉行より当時代田村引取無之候ニ付残歩丈ヶ上郷分水口増樋掛合書 但野方堀通村々引取分水口廉書品川用水三田用水分水口御普請一件 文久元酉年六月 御金方
なる文書があることがわかりました。

 読んでみると、といっても何分古文書まして公式文書の原本なら「固い字」で書かれているのでしょうが、この文書のはその写しであることも加わってスラスラ読める道理もなく、とりあえず当面は「読めるところだけ拾い読み」するほかないのですが、どうやら

・明和8(1771)年に、いわば代田村と下北沢村連名の出願により(同18~21コマ)、
 玉川上水に「圦樋長三間内法三寸四方」(同27コマ)
 の代田用水の分水口が設けられた。

その後の経緯・理由については、まだ読み取れないのですが、

・これを文久1(1861)年になって廃止し、
 その分「上北澤村分水口」を「増樋」(つまり、そちらの分水口を拡げた)した(同10コマ)

ということのようです。

 もっとも、この文書の末尾近く(58コマ~)にも、天明5(1785)年の同様の案件の記録があり*、これらの関係はまだ不明なのですが、天明期の案件がそのまま実現されていれば、文久期にあらためて詮議する必要もなかったことや、前述したこの地図の作製時期からみると、天明期のは、いわばアイデアとして出たものの実現はしなかった、と考えるのが素直なように、いまのところ考えています。

*おりしも天明の大飢饉の最中であり、水があっても収量が上がらないので水料米の負担に耐えられなくなったた可能性がある。

【追記】

昨6月22日朝、突然思い至った。
その発想で、原文を読み直すと、どうやら正解。
2019年7月22日開催の北沢文化遺産保存の会 の研究大会
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52091878.html
で発表後、パワーポイントによる資料を含めて、ここに追記することにする。

 いずれにせよ、先の、絵図にある代田分水の「水路のない分水口」は、この文書の経緯を反映しているのではないかと思われます。

代田用水はどこを流れていたのか

この…

「一時は実在したことが確からしい」代田用水。

 次に問題になるのは、どこをどう流れていたかにあります。

 実は、玉川上水の分水といっても2つのタイプがあって、

・その一つは、玉川上水と同様に、台地の稜線の上を流れるタイプ
  典型が、千川上水と三田用水。それと、かなり無理はしていますが絵図中の品川用水

・もう一つは、自然河川、したがって台地の中の谷につなげるタイプ
  典型が、絵図中にもある、烏山用水と(上)北澤用水

で、より遠くまで水を送るには前者が理想ですが、それには、もともとそれを可能とするような地形に恵まれていなければなりません。

あえて…

根拠を挙げ*、さらにそのまた根拠を挙げだすと、えらく長ったらしい話になることが分かったので、結論をいえば、この代田用水は、下図

Photo_3

のように、北沢川((上)北澤用水)の支流の一つ。里俗(「現地での俗称」という意味。以下同じ)・森厳寺川のそのまた支流の里俗・だいだらぼっち川の谷頭につながっていた可能性が一番高いと思われます。

*「あえて」一次的な根拠を挙げれば
・地形的にみて、玉川上水から南に水を流せば、ほどなく北沢川((上)北澤用水)に落ちるので、
長距離の送水は必要ない
・あえて稜線上を流そうとすると、西の世田谷区村飛地の羽根木との境界の「堀の内道」か、東
 の下北澤村との境界の「里俗・鎌倉道」に沿って水路を拓く必要があるが、そのような痕跡が
  ない
・加えて、その稜線上の水路から、水田を設けることが唯一可能な「だいだらぼっち川」までの分
 水路がいくつか必要だが、その痕跡もない
・そもそも、「だいだらぼっち川」沿いの、明治期の地租改正時の地番割をみても、そのような本格
 的な用水路を必要とするほどの水田はなく、「だいだらぼっち川」の堰上げによる灌漑で対応で
  
きる程度の水田の面積と考えられる。

 

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