北沢川文化遺産保存の会 第5回研究大会
(令和01年07月27日 於・梅ケ丘パークホール)
での発表
時の、配布資料
とプレゼンテーションです。
代田村の村内東北部には玉川上水が流れているため、
持場村として、土手の草刈りや木の枝払い、水路周辺の監視などのために、などにかり出され、苦労を背負いこむ一方で、
上水の水の一部を田んぼのための農業用水に使えるようになった、というメリットも受けている面もある。
【後補】
東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 pp.80-81によれば、代田村の村髙は
時期 | 村髙 | 田髙 | 畑髙 | |
正保年間(1644-1648) | 75石 | 32石 | 43石 | 玉川上水/北沢用水/三田上水開鑿前 |
文政13年(1830) | 533石 | 69石 | 464石 | 玉川上水/北沢用水/三田用水開鑿後 |
【余談】我が家は、この水路沿いにあるので…
このお酒は、多摩川上流の青梅線の沢井駅最寄りの湧水で作られているという。
つまり、この湧水の水の一部は、昭和初めまで我が家の真ん前を流れ、我が家の地面にも浸み込んでいることになる。
地鎮祭の「お守りください」という意味でのお神酒や、
隣地にあった祖父の家の井戸を埋めるときの「お鎮まりください」という意味のお清めの酒
として、この澤乃井以上のものはあり得ないだろう。
上水記などには書かれていないが…
品川筋(品川用水)、上北沢筋(上北沢用水)などのような、
代田筋(代田用水)があったことになるし、
現に、この絵図の右上に「代田用水」と書かれている。
横方向の黒い線が玉川上水。その上下の薄色の線が甲州道中。したがって、代田の文字の直上が代田橋。
上水にくっついている四角いものが、左端の上北沢用水の例から水を分ける分水口であることがわかる。
しかし、代田用水については、分水口は描かれているが、そこからの水路の線がない。
しかし、よく見ると、「代田」という文字を囲む丸枠の右上が欠けている。
これは、当初描かれていた分水口と代田の丸枠を結ぶ水路の線が、白い絵の具で抹消された(現代の「ホワイト」と同じ)ことを示すと思われる。
実は、この代田用水、未だ玉川上水をめぐる文献では目にしたととはないが…
幕府の玉川上水の管理記録である、「玉川上水留」(十七ノ百八十八第七棚)
国会図書館・蔵<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587423>
にしっかり記録されていた。
代田村を流れる3本の川のうち、2本についてはすでに三田用水からの分水が接続されている。
したがって、この代田用水は、ダイダラボッチ川に接続されていたとしか考えられない。
白い部分に、曲がりくねった古道の雰囲気の道路がある。
京王線あたりからの勾配からみて水路跡と考えても矛盾がない。
上の道路が水路跡とすると、この代田用水は、里俗・ダイダラボッチ川の
同じく宇田川湯支流に接続されていたらしいことになる。
ここまでの記録では、代田用水は1770年から1861年まであったことになる。
しかし、この間の上水記記載の分水の調査記録のどちらにも載っていないのは不可解。
しかも、1861年の文書に、勘定奉行が登場するのも不可解。
なぜなら…
しかし、この「ファイル」の末尾に、とって付けたように、下記の文書が…
宛先の4名中、山川下総守が、目付だったことは判明した。
と、いうことは、他の3名のうち、1名は普請奉行、もう1名は勘定吟味役
残りの1名はもう一人の目付だったのではないか。
結局、代田用水は、以下のような経過をたどったことになる。
もっとも、それでも、「計算が合わない」部分がある。
あるいは、玉川上水の分水は、後世の我々が想像する以上に、頻繁に、新設・閉止が繰り返されていたのかもしれない。
上水記だけにしがみついていても、ここでもその一例示せたように、ダイナミックな玉川上水の歴史には到底届かないのではなかろうか。
【追記】
小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」(公財)とうきゅう環境財団/2014・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf
によれば
昭和27年8月 北沢用水普通水利組合は北沢用水土地改良区に改組され(p.108)
同土地改良区は、昭和39年3月には組合員19人により存続していた(p.146)
という。
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