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2021年 8月21年の世田谷文学館が、探検家高橋大輔さんを講師に迎えた
について、事前提出したワークシート
ダイダラボッチの「線の記」 【追記】2021/08/03 所定のワークシートを提出 参照
を契機に、地元民(ヂイダラボッチを語源とする旧代田村の隣村下北沢村民)として、少しばかりお手伝いさせていただきました。
テーマの「ダイダラボッチ」という巨人のお話。
今の井の頭線新代田駅の北の方にあった、巨人の足跡と言われる大きな窪地が、昔「ダイダラボッチ」と呼ばれ、それが、世田谷区の「代田」と呼ばれる地域の名前になったのは、どうやら確からしいのですが…
残念ながら、柳田國男が、ここを訪れた、今からちょうど100年前にあった、小川も池もそのそばにあった弁天さまのお堂も今はみることができません。
しかし、そこからちょっと南に
・窪地
・池
・弁天様のお堂
が今も1セットで残っている場所がありますので
・大元のダイダラボッチの場所
・小田急線の世田谷代田駅前広場の「ダイダラボッチの足跡」
・今も残る「ダイダラボッチ」
を、順番に巡るコースをご紹介することにしました。
①
京王井の頭線「新代田」駅下車
https://goo.gl/maps/prdGinjUXCggRLRq8
②
「新代田駅」北隣「世田谷区立代田図書館」
(世田谷区代田6-34-13「代田区民センター」3・4F)
ここの館内は「ダイダラボッチの足跡」だらけ
とくに、4Fの児童書などのフロアには、このデザインを採用したテーブルとスツールによる「足跡」がある。
本来は、指の数の5個のスツールがあるのですが、 感染防止のため、一部撤去されている由 |
↓徒歩 北東に約400m
③代田の「ダイダラボッチ」
https://www.city.setagaya.lg.jp/kitazawa/001/001/005/d00037757_d/fil/shimokitazawabunkachizu-8.pdf
北端の「畑」の端の擁壁上部から、かつてのダイダラボッチの「すりばち地形」
https://goo.gl/maps/uMRf7Sv6aVAbUh9b8
を鑑賞可能
家が立ち並びすぎて「迫力」には乏しいが… |
時間があれば、東側の道路で「谷底」に降りて、「すりばち」の底から、北、東、西方向を見上げてみると、深い凹みがあったことがわかる
谷底の東側道路から |
↓徒歩 南約400m+新代田駅前から東急バス「森91」路線
https://www.tokyubus.co.jp/route/routemap/pdf/00_all.pdf
で1停留所先の「代田4丁目」停留所から徒歩南に約350m
または、
↓徒歩 南約1Km
④
小田急線「世田谷代田駅」前
https://goo.gl/maps/YqGYF1xArQym7W1K8
ダイダラボッチの足形広場
(インターロッキング・ブロックで作られた、モザイク状の舗装なので、誰でも、富士山の方を向いた足形の上を歩くことができる)
晴天で、時間があれば、そこから西方向に環状7号線の陸橋を超えて
「富士見356〔みごろ〕広場」へ
・ここは、小田急線の地下トンネルからの出口直上なので、タイミングが合えば「ロマンスカー」を見ることができる
・さらに、快晴ならば富士山が見える
↓徒歩 北約350m
⑤
東急バス「森91」路線「代田4丁目」停留所
:大森方面行
⑥ 「野沢銀座」停留所
↓徒歩 南東約200m
⑦
世田谷区立「鶴が久保」公園
案内板などが見当たらないのでわかりにくいが… 「野沢銀座」のバス停から南(こらまでの進行方向)に進み セブンイレブンの先の角を左に回る |
令和元年に、従前の「地味」な公園からリニューアルされた「鶴ヶ久保公園」
https://goo.gl/maps/prdGinjUXCggRLRq8
もともと、
1 ここは、地元の郷土史家の鈴木堅次郎の「駒澤行」(雑誌「武蔵野」第2巻2号/武蔵野會・T08/07 p.34)に
包含層とダイダラボツチと検地碑 明治大學運動場側の坂道附近には石斧が散見し包含層がある、鳥居、大野、村高の諸先輩の既に詳細説示されてゐる場所である、その先にダイダクボといふ凹地がある、三四段の地域で最も深い所に池があり古來灌漑用の水源となってゐる。傳説に曰く此處はタイダラボッチの足跡で此の凹地に入り土地を掘り木を伐ると罰が當ると、蓋し水源保護の爲めであらふ。
由來ダイダラボッチの話は巨人傳説として取扱はれてゐるが此の足跡は荏原郡碑衾村大字衾より此処を経て世田谷村大字代田に飛んで其間隔半里以上ある、…此の窪地側の鎮守稲荷社の境内に野澤村創立の碑ある
とあって、ここが、ダイタあるいはダイダと呼ばれていたことが(世田谷代田のそれ以上に)確実といえる場所にある。
環七からの下り坂の道を進み… 公園入口からは、さらに地面が低く下がっている |
2 昭和13年には、東京市立の公園となっていたこともあって、この凹んだ地形が比較的良好に保存されているうえ、下図のようなオリジナルの形ではなさそうだが、それに近い池も設えられている。
周囲に環濠を設つことによって、中央部の湧水場所を保護していたのではなかろうか |
当時まだ近郊農村地帯だったこのこの地が昭和13年に東京市立公園ができたのは、ここが、昭和5年認可され昭和10年代初めに終了した区画整理の対象地内にあって、もともと、湧水のある水源地だったいわば谷底の場所であり、弁天堂もある近隣の信仰の対象でもあった場所なので、住宅地として処分するのに適さないので、公園用地として東京市に寄附されたようである*。
昭和13年4月の公園開設当時の大理石のプレートも保存されている |
3
*「世田谷区における公園整備の推移に関する研究」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/54/5/54_5_323/_pdf/-char/ja
の、p.322に
昭和13年4月 に開園の「鶴 ケ久保公園 は下馬土地区画整理組合 と野沢 土地区画整理組合の共同で提供 され た土地 に東京市 が公 園の整備を した もの」
とある
かつての湧水は、今でもかすか残っているようである
4
公園南西隅に水が湧き出し |
そこから東側の池に水路でつながっている |
4 しかも、いわば湧水地の「お約束」ともいえる、かつては世田谷代田のダイダラボッチにもあったという、弁天堂も(鶴ヶ久保弁財天)残されている。
高村広毅「国分寺崖線の湧水について(基礎資料編)--世田谷区の場合」
立正大学人文科学研究所年報 (19), p33-42, 1981
https://rissho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5116&item_no=1&page_id=13&block_id=21
のp.33「表1」「区の湧水番号 18」によると、遅くも1980年ころには、湧水が確認されている(今も乏しいが湧水は残っている)
なので、世田谷というより、東京南東部、つまり旧武蔵国荏原郡のダイダラボッチのオリジナルの姿が最も残されている場所の少なくとも一つであることは確実。
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-f648.html
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6041/1/sundaishigaku_55_87.pdf
⑧
帰路は、
・東急田園都市線駒沢大学駅まで約1.1Kmで徒歩圏
・環七通り/龍雲寺通りの野沢龍雲寺停留所から
前記「森91」系統 新代田:長原駅・馬込駅・大森操車場
「反11」系統 学芸大学駅・武藏小山駅・五反田駅
「渋32」系統 池尻大橋駅・渋谷駅
「黒09」系統 中目黒駅・目黒駅
「都立34」系統 都立大学駅
方面への東急バス
「下61」系統 三軒茶屋駅・下北沢駅
方面への小田急バスがある。
※乗り換えが面倒でなければ、それぞれ
京王井の頭線 新代田駅 近く
小田急小田原線 世田谷代田駅 西口前
東急田園都市線 駒沢大学駅 近く
なので、電車での移動も可能。
【追記】2021/08/21
無事に終わった高橋さんの講演。参加者が事前に送った「ワークシート」のうち、主として小学生から寄せられたものが順次紹介されたのですが…
「びっくりした」のを通り越して「衝撃的」だったのは、たしま れい君のダイダラボッチ評
「人みしり」
実は、この「一言」だけで、確かに、あらかたの「ダイダラボッチ伝説」が説明できてしまうのです*。
(もっとも、さらに大きな疑問点は、ダイダラボッチが「何のために、そんな『土木工事』をしたのかがわからない」ものがあらかたであることなのだが)
【追記】2021/08/24
高橋大輔さんのブログを見つけた
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