■令和3年3月28日
驟雨の中、世田谷代田駅前広場の開場式が開かれました。
テープカット |
この広場には、ヒトの右足の巨大な跡が、道路舗装用のインター・ロッキング・ブロックという部材で、モザイク状に描かれています。
世田谷区制作のジオラマから DaidaraNotesAndQueries: 「しもきた線路街」のジオラマ |
【参照】
https://daita-machidukuri.jimdofree.com/
■この足跡は…
世田谷代田に、かつての代田村時代から伝わる「ダイダラボッチ」という巨人の伝説に基づくもので、
今日配られた、世田谷区北沢総合支所街づくり課が令和3年3月に発行した「世田谷代田 駅周辺まちづくりニュース No.18」の裏面の「代田のダイダラボッチ!」と題したページに「代田村に巨人がのっしのっし」とのタイトルで、同地に伝わるダイダラボッチにまつわる民話が掲載されています。
■この民話は…
駒澤大学の故・櫻井正信名誉教授*が、世田谷区内の民話を精力的に収集し、同区の「区議会だより」に連載された成果をまとめた
クロスメディア・編「改訂・世田谷の民話」世田谷区区長室広報課/1995・刊
中の1篇です(巻末の「編集後記」に、同名誉教授への謝辞があります)。
*櫻井名誉教授は、かつてテレビ東京で放映していた、世田谷区の広報番組
「風は世田谷」中、下記の2篇に登場している。
第80回「せたがや昔ばなし」(昭和62年4月11日放送分)10分08秒~ 第341回「世田谷の民話 豪徳寺の招き猫代田の娘豊作を占う」(平成4年5月7日放送分)
01分13秒~
なお、同名誉教授による世田谷に関係の深い論文としては桜井正信「玉川周辺の歴史地理学的研究 ‐とくに地域開発の構造分析とその方法‐」駒澤地理3〔1965〕pp.18-が、挙げられる。
「代田村に巨人がのっしのっし」と題する1篇(同書 pp.28-29)は、
世田谷区生活丈化部文化課・編「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」同/H09・刊
のpp.69-70にも掲載されていますが、そのあらすじは以下のようなものです。
代田村では、数年にわたる旱魃と厳冬で土が冷え込んでしまい、神仏に頼るしかなすすべがなかった
そんなある日、吹き続けていた冷たい北風が吹き止んで、温かい日差しに転じた
空を見渡すと、男体山と浅間山の間に渡された竿にかかる着物が北風を防いでいることに気付いた
その夜、代田村に大男が大きな足音を立てて現れ、夜通し田畑を開墾し、翌朝には、それまで畑だった高台が、湧き水のある水田に変わっていた。
次の日に村人がみると、その大男は、筑波山に腰かけて、浅間山でキセルのタバコに火を点け
代田村に向かって、にっこりとほほ笑んだ。
■しかし…
この民話は、数多くの巨人伝説の中で、かなり特異なタイプに属します。
と、いうのも、日本には、ダイダラボッチに限らず、巨人あるいは異様な力持ちにかかわる伝説は数多くあるのですが、巨人が人目に姿をさらしたという逸話はこれまで見たことがなく、一夜にして、山を動かしたとか代田の例のように田畑を拓いたという話でも、大きな振動や音を立てることはあっても「人に姿を見せない」のが通例といってよいのです。
まして、上記の末尾のように、ヒトとコミュニケーションした話というのは、巨人伝説の一般的な傾向からは、かけ離れているように思えます。
たとえば、
DaidaraNotesAndQueries: だいだらぼっち基礎情報
に引用した、柳田國男「だいだら坊の足跡」には、古今東西のだいだらぼっち伝説が数多く取り上げられていますが、明らかにヒトとコミュニケーションをしたというのは、巨大な脛を黙って天井から下してヒトに洗わせるという伝説がある程度で、「顔を見合わせた」という話ではありません。
■実は…
この民話には、もう一つおかしなところがあります。
まず、巨人の行動を、3つのエピソードに分けて考えてみます。
エピソード1
男体山と浅間山に竿をかけて洗濯物を干す
エピソード2
夜どおし、田畑を開墾する
エピソード3
筑波山に腰をかけて、浅間山でタバコの火を点ける
■この3つの…
内容を見てみると、それぞれが「単体」でも「巨人のお話」として成り立ち得ることがわかります。
ときに、エピソード2は、数多くある「巨人による土木作業の伝説」、大掛かりなものとしては琵琶湖の土を掘って富士山を作るというものがありますが、ほかにも山を動かしたり、田畑を拓いたりする話は枚挙にいとまないので、やや典型から離れるとしても、「その姿を人が垣間見た」かどうかの違いに過ぎないとも言えます(巨人側が意図的・積極的に姿を晒しているわけではない)。
しかも、代田に、巨人の足跡との伝承のある窪地が存在していたことは、別ブログですが、
からも疑う余地がないのですから、エピソード2が、もともと、代田で伝承されていても不自然はありません。
■しかし…
エピソード1と3には、もとから代田に伝承されていたと考えるのには、いわば致命的な問題があります。
なぜなら、 代田から浅間山は見えない* と思われるからです。
*江戸時代の著名な紀行文の一つ、村尾嘉陵「江戸近郊みちしるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕によれば、江戸直近で浅間山を見ることのできるのは、今の埼玉県蕨市のあたりが南端と思われる。
幕府によって公式に江戸の範囲と定められていた代々木村にほど近い代田から浅間山が見えるのであれば、その著者である、徳川御三卿中の一家である清水家の用人(実質的には幕臣と思われる)であるため、日帰りの旅しかできなかった嘉陵が、わざわざ、寅の一點刻(今でいう午前4時)に江戸府内の役宅を出て、9時間かけて「浅間山見たさに」桶川まで足を延ばす必要があったとも思えません。
下図のように、蕨でも浅間山が見えることを知ったのは、その帰途とのことです。
蕨附近から見た浅間山(中央やや左)〔江戸近郊道しるべ26巻〕 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/23 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577953/24 |
代田でも、たとえば筑波山なら距離も近く日常的に目にしていた可能性もあるのですが、距離が約125キロメートルと富士山より35キロメートルほど遠く、標高も1000メートル以上低い浅間山を題材に、このような伝承が自然発生することは考えにくく、どうやら、エピソード1と3は、どこか他所から代田に伝播してきた話で、それに、もともとから代田にあったエピソード2とが、いわば「巨人伝説」同士であるためにいつしか結合して、櫻井名誉教授の採集した民話の形になった、と考えるのが素直なのではないでしょうか。