2018年10月8日月曜日

『紫の一本』の「大太橋」

戸田茂睡『紫の一本』〔下〕
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945799/143 「だいた橋」
「だいた橋、だいたぼっちが掛たる橋のよし云傳ふる、四ツ谷新町の先笹塚の手前なり」

とある由

戸田 茂睡(とだ もすい)は、寛永6年5月19日(1629年7月9日) - 宝永3年4月14日(1706年5月25日)と言われているので、

奥書に天和2年(1682年)12月、その浄書に関する後書に天和3年(1683年)5月の記載があることには、上記と矛盾はないことにはなるが…

実際にそれ以前の作との考えもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%9C%AC#成立年代)。


甲州道中は

慶長9〔1604〕年開通

といわれている


代田橋は、その約半世紀後の、
1653年の玉川上水の開鑿工事によって始めてかけられたことは明白


柴の一本
http://hist-geo.jp/img/archive/114_013.pdf

の成立時期は、それから、いかに遅くともわずか30年後いうことになる。


つまりは、昔の人がいかに短命だとしても、明らかに、実際に、工事を見ていたり、さらには、駆り出された人が生きている時代に「…一本」が書かれているのだから、その間に「だいだらぼっちの懸けた橋」との伝承が生ずることは、とても考えられない。

したがって、
「ダイダラボッチが架けた『だいた橋』」は、甲州道中の玉川上水上に懸けられていた橋(そもそも、この橋を当初から「だいたばし」と呼んだのかも定かでない)ではなく、

文字通り「四谷新町の先、笹塚の手前」にあった「大太橋」なる全く別の橋のことではなかろうか。

【以下、検討用資料】

 *淀橋の条
   大猷院 家光 1651没
   なるこ宿
   両国橋     1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)の2説  

*地名から
 四谷新町とは

  https://edo.amebaownd.com/posts/3416557

 によれば、角筈新町、現在の西新宿1~3丁目の別名とされる

 笹塚は

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%A1%9A#歴史

  https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/ku/uraig.html

 当地の旧一里塚は、後の代田橋の南にあったと言われる


現在の笹塚跡 笹塚2-12
http://shibuyasanpokaigi.jp/shinbun/index.php/2018/07/11/history11-sasazuka-and-hataraiike/


推定位置
代々幡町大字幡ヶ谷字北笹塚1197番









*地図

明暦の大火(明暦3〔1957〕年旧1月18~20日〔3月2日–4日〕)以前であり、この時期の江戸図自体が少ないが、一応は大火以前の江戸を描いているといわれる

〔寛永江戸図〕
 http://dl.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/media_files/original/867.pdf?uid=20180617043829

をみると、

寛永年間:1624~1645

寛永江戸図・抜粋

正保年中江戸絵図 しょうほうねんちゅうえどえず〔国立公文書館〕
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0201090000/0000000036/00

正保元年御江戸繪圖〔NDL〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8367666/3

正保江戸圖〔NDL〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369283/3
も同じ


甲州道が描かれ

ハタガヤ村の西で、世田谷道〔駒場道〕との間で2つ谷を越えている

また、そこから笹塚までの間には、もう一つ牛窪の大きな谷がある。

問題の橋は、これら3つの谷のうちどちらかにかかっていたのかもしれない。


■天保国絵図 武蔵国 〔国立公文書館〕
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_3/0000000259/01


一里塚の位置が:で示されている






 
朱引図抜粋

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