http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-29.html
十方庵敬順「遊歴雑記」(文化・文政期)
→北区豊島
戸田茂睡『紫の一本』〔下〕(天和年間〔1615~24〕)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945799/143 「だいた橋」
「だいたぼっちが掛たる橋のよし云傳ふる」
cf.玉川上水 1653年
しかも、明暦の大火(明暦3〔1957〕年旧1月18~20日〔3月2日–
∴戸田が書いた橋は、後の玉川上水の橋ではなく
文字通り「四谷新町の先、笹塚の手前」にあった「大太橋」なる別の橋ということになる
委細は、別アーティクルで。
小山田與清『松屋筆記』(文化末〔1818〕年~弘化〔1845〕年ころ)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993265/42 巻の五 一「ダイラボッチの足跡」
相模の大沼
山崎美成『海録』(文政3年〔1820〕年~天保8〔1837〕年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945818/265 「三 大太坊蹤」
蜀山人『壬戌紀行』(享和2(1801)2年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993336/88 下「百合若大臣の足跡石」
→代田言及は「紫の一本」の「だいた橋」のみ
熊楠「ダイダラボウシの足跡」全集3巻pp.9-12 M41
喜多村信節「嬉遊笑覧」巻の四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091/234 巻の四下 「大太ホッチ」
「豊後日向両国の界」「『紫一本』に言及」
「大太ぼっちの足跡力業の跡爰かしこにあり」
↑
季刊誌『武蔵野』武蔵野会
2巻2号・鈴木堅次郎 「駒澤行」pp75~78 *
荏原郡碑衾村大字衾/世田谷村大字代田
*世田谷城名残常盤記―世田谷風土記 (1961年)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E5%90%8D%E6%AE%8B%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E8%A8%98%E2%80%95%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98-1961%E5%B9%B4-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A0%85%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/B000J4PUNO
の著者?
2巻3(T08/12)号・谷川磐雄*「武蔵の巨人民潭」pp34~38
代田のダイダラボッチ←「紫の一本」
「会員鈴木堅次郎氏に承はるとそれは今代田の薬師様のある窪地だそうである」
↑代田の(橋でない方の)だいだらぼっちの初出か
「又駒澤村上馬引澤、同じく野沢、碑衾村谷畑等にもあるよし鈴木氏から承はつた、」
+荏原郡衾村字大岡山小字摺鉢山/千束村狢窪
* https://openinq.dl.ndl.go.jp/authorDetail?authorId=YQ00082453
巨人民譚考
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018718/66
↑
柳田「ダイダラ坊の足跡」定本5巻
「武蔵野と水」同上
「山の人生part29」定本4巻
※
紫の一本〔橋〕 → 鈴木論文〔橋〕 → +鈴木情報〔窪〕 → 谷川論文〔窪〕 → 柳田
但し、紫の一本〔橋〕 ≠ 代田橋 ?
鈴木堅次郎
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097844/18 S03 上馬43
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1091695/21 S04 上馬43
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036595/43 S11 三茶43
鈴木情報 〔窪〕= 地元での聴き取り?
市/府会議員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%95%E4%B9%8B%E9%A0%AD%E7%94%B0%E5%9C%92%E4%BD%8F%E5%AE%85
東京都三鷹市における近代の都市形成
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110006405768.pdf?id=ART0008406519
だいだらぼっちに関する初出文献。すでに、ちゃんと調べている人がいました。
柏原 俊子 「巨人伝説:ダイダラボウ伝説の成立に関して」日本文學Voj.37,pp.1-16, 1971-10-01
http://id.nii.ac.jp/1632/00018940/最初に「ものの本」に載ったのは文政期の、山崎未成「海録」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945818/180 「三 大多法師畫」
あたりのようで、
近代における議論の発端は、
・明治41年発行の「東洋学芸雑誌」の316号への、読者からの照会に対する
316号〔1908-01〕雜錄 ダイダラボウシの足跡と火の穴 / 坪井正五郞/p20~22
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/josetsu/2011_07/index.html
のようで、
・ここから、あの南方熊楠が同年の319号に
319号〔1908-04〕寄書 ダイダラボウシの足跡 / 南方熊楠/p182~185
を投稿。
・柳田國男も明治43年の雑誌「太陽」掲載の「傳説の系統及び分類」
(定本5巻517)
で、巨人伝説やダイダラ法師伝説を採り上げるという経過を辿ったようです。
・明治41年発行の「東洋学芸雑誌」の316号への、読者からの照会に対する
316号〔1908-01〕雜錄 ダイダラボウシの足跡と火の穴 / 坪井正五郞/p20~22
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/josetsu/2011_07/index.html
のようで、
・ここから、あの南方熊楠が同年の319号に
319号〔1908-04〕寄書 ダイダラボウシの足跡 / 南方熊楠/p182~185
を投稿。
・柳田國男も明治43年の雑誌「太陽」掲載の「傳説の系統及び分類」
(定本5巻517)
で、巨人伝説やダイダラ法師伝説を採り上げるという経過を辿ったようです。
なお「新修世田谷区史・上」同区/1962 p.1400
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