2018年11月23日金曜日
2018年11月2日金曜日
北條家分限帳
*181102現在「代田屯」発見できず
http://www.city.setagaya.lg.jp/kitazawa/12000/12001/12025/d00120133.html
(永禄二己未年十二月十二日)小田原北条家所領役帳. [2]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/54
(永禄二年)北条家分限帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538668
江戸 世田谷/雪ケ谷?
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/46
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00600/i04_00600_0132/i04_00600_0132.pdf
44コマ
小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538679/56
小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538680/48
「原本は小田原落城の折、高野山に落ちていった氏規などにより高野山高室院に保管さ
れていたが後に焼失してしまっている。 しかし、原本焼失前の元禄5年(1692)、
武蔵国豊島郡王子(東京都北区岸町)金輪寺の第5世宥相という僧が写しをとっており、
その後、宥相の写しから更に写しがとられ、それが転写されて現在いくつかの写本が存
在する。 明治になって内務省も写本をとっている。」の系統
http://hitosugi.web.fc2.com/2021.pdf
他に、
「平塚市史編纂の過程で平塚市今井治良氏所蔵の「小田原役帳」が発見された(神
奈川県史)。 これは宥相の写しとは別系統であるといわれ、韮山城主だった氏規の末
裔河内狭山藩主となった北条家伝来のものと伝えられる。」
ものがあるとのこと。
詳細下記
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
付 妙円寺
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622/171
余談
https://books.google.co.jp/books?id=-RBgDAAAQBAJ&pg=PT9&dq=%E4%BB%A3%E7%94%B0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjb3s7L_bPeAhULZt4KHZ26BwYQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E4%BB%A3%E7%94%B0&f=false
http://www.city.setagaya.lg.jp/kitazawa/12000/12001/12025/d00120133.html
代田
この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は、「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから、大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し、「だいた」になったというものです。(「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成9年3月発行)より引用)(永禄二己未年十二月十二日)小田原北条家所領役帳. [2]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/54
(永禄二年)北条家分限帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538668
江戸 世田谷/雪ケ谷?
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554926/46
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00600/i04_00600_0132/i04_00600_0132.pdf
44コマ
小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538679/56
小田原北條所領役帳
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538680/48
「原本は小田原落城の折、高野山に落ちていった氏規などにより高野山高室院に保管さ
れていたが後に焼失してしまっている。 しかし、原本焼失前の元禄5年(1692)、
武蔵国豊島郡王子(東京都北区岸町)金輪寺の第5世宥相という僧が写しをとっており、
その後、宥相の写しから更に写しがとられ、それが転写されて現在いくつかの写本が存
在する。 明治になって内務省も写本をとっている。」の系統
http://hitosugi.web.fc2.com/2021.pdf
他に、
「平塚市史編纂の過程で平塚市今井治良氏所蔵の「小田原役帳」が発見された(神
奈川県史)。 これは宥相の写しとは別系統であるといわれ、韮山城主だった氏規の末
裔河内狭山藩主となった北条家伝来のものと伝えられる。」
ものがあるとのこと。
詳細下記
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
付 妙円寺
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622/171
余談
https://books.google.co.jp/books?id=-RBgDAAAQBAJ&pg=PT9&dq=%E4%BB%A3%E7%94%B0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjb3s7L_bPeAhULZt4KHZ26BwYQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E4%BB%A3%E7%94%B0&f=false
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